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Abstract Art as Impact

Kenjiro Okazaki

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抽象の力

岡﨑乾二郎

1|キュビスムと《見えないもの》

たとえば日本においてキュビスムはいかに受容されたか、という調査研究を行おうとするなら、見かけが類似した作品をむやみに探しだす前に、そもそもキュビスムとは何だったのかを明らかにしなければなるまい。キュビスムという様式はなぜ出現したか、画家たちはなぜあのような形式にいきついたのか、まず研究者自身のキュビスム理解が調査の前提として問われる。しかし、研究者自身のキュビスム理解そしてキュビスム定義を棚にあげて、見かけだけ類似した作品を片端からリストアップし、そのあげくに日本の美術家たちはキュビスムの表面上の追随、模倣に終わっていた、などという解説にいきついてしまうなら、それは転倒にほかならない。見かけ上の類似だけを判断基準にしていたのは研究者自身なのだから。

 だが、そもそも感覚器官としての眼が実際に見ているものは、われわれがいままで見ていると思いこんでいた対象の姿とは違う。眼に実際飛び込んでくる情報と見ていると思っていた像のずれ、これが印象派から後期印象派、キュビスムにいたる流れで画家たちが共有するようになった自覚だった。印象派は対象の輪郭をなくし、より直接的に変化しつづける光の揺れ動き、色彩の移りゆきを追いかけ、画面に定着しようと試みたが、明確になったのはこの実際に視覚器官に入ってくる、際限なく変化しつづける無数の断片的な感覚情報から、われわれが見ていると思っていた(いつも同じものと捉えていた)対象の姿=像は直接的にはもたされない、ということだった。感覚から直接、われわれが捉えていると考えていた対象の姿が導かれないのであれば、われわれはそれをどのように把握していたのか? 

fig.1歩く人エティエンヌ=ジュール・マレー1884年

 すなわち現実を観察すればするほど対象に対する知識が増え、この情報が一つに束ねられるところの対象の像が正確になり強化されるのではない。むしろその統一された姿は解体していく。感覚情報の累積からは決して、そこに一つの対象が存在するというリアルな像はもたらされない─いわば後期印象派の画家たちはそれをいかに再組織するかという課題によって繋がっていたが、同時代、アンリ・ベルクソン(1859-1941)はこうした断片化された感覚情報を結びつけているのはまったく別の能力であることを示し考察していた。ベルクソンの哲学はまた同時期に発明されたエティエンヌ゠ジュール・マレー(1830-1904)の写真銃にも対応している。マレーの写真銃fig.1LINKがとらえた人間あるいは動物たちの運動する姿は、瞬間瞬間にカメラが視覚世界から切り取る静止した(われわれが見ていると思い込んでいた)像とはまったく異なっていた。それは時間によって刻まれた光の切片の連続が作り出す抽象的軌跡だったのである。

fig.2「後期印象派展」ポスター1910年

 知られているように後期印象派という問題群を整理し、その問題群の延長にフォーヴィスム、キュビスムを位置づけたのは画家であり、批評家であったロジャー・フライ(1866-1934)である。フライは「後期印象派展」(1910年、第2回展1912年)fig.2LINKを組織し、後期印象派からキュビスムに至る画家たちが、目に直接入ってくる視覚情報から離れ、人が感覚を超えて把握し認識している対象のリアルかつ確実な姿こそを、絵画として論理的に構築することに向かっていることを指摘した。キュビスムはこうした思考を代表的に示していると見なされたのである。

 確かにキュビスムの核心にあったのは、視覚が一瞥して捉えることのできる代表的な像(イメージ)への関心の、むしろ低下である。それはキュビスムの、一見しては判じ難い、その画面に明らかである。

 一般にキュビスムは一つの代表的視点によって捉えられ再現されていた従来の対象像を多数の視点によって断片化し、解体したと説明されてきたが、こうした視点の多数化という視覚原理による説明では、

-なぜ分析的キュビスムには色彩がなく、おおよそ土肌色(アンバー)で覆われているのか?fig.3LINK
-なぜ彼らは実際の対象物を文字通り、解体し、再構築したような彫刻、レリーフを作られなければいけなかったのか?(それらの事物としての作品をさらに多視点的視覚で解体するのだとしたら、対象自体を変形操作するのは冗長ではないか?)fig.4LINK

という問いには適切に答えられない。が、そもそもキュビスムは対象の見かけ(のそのものらしさ)の再現、つまり視覚への依存から絵画を離し(誰もが知るように、キュビズムが放棄したのは事物の見慣れた形=区切られた形であり、対象を特徴づけているとみなされていた固有な色彩である)、それらに拠らず、より直接的、具体的そしてリアルに対象を把握することを目指したのである。

fig.3Still Life with a Bottle of Rum PabloPicasso1911年metmuseum.org

fig.4ギターパブロ・ピカソ1912年

fig.5盲人の食事パブロ・ピカソ1903年metmuseum.org

fig.6老いたギター弾きパブロ・ピカソ1903年jacquelinemhadel.com

 たとえば青の時代の頃にパブロ・ピカソ(1881-1973)が、文化の周縁に生きる人たち、特に盲目の人の触覚を主題にした絵画fig.5fig.6を描いたとき(そこでも色彩は抑制され、画面は弱い光の中で最も強く知覚される青色に覆われていた)、見える世界が薄れても、なお対象は一つに統一された像としてリアルに把握されうるという事実にこそ関心を注いでいたはずである。重要なのは全体を一つにまとめる特徴的な形ではなく、細部のテクスチャー、触覚的直接性である。あるいはマティスやドランなどの同時代の多くの芸術家たちと同様、ブラックやピカソがアフリカ彫刻fig.7から受け取った衝撃は、見かけの類似性を持たなくても、それらがはるかに強く、事物が存在するリアリティを喚起するという事実だった。

fig.7grebo族のmask

 いずれにせよ、キュビスムの前提にあったのは、感覚与件=視覚を含めた個々の感覚器官が刻一刻と感受している情報と、対象の認識=人が対象として把握していることはまったく異なる次元の事柄だという認識である。すなわち、人は、視覚が捉えられうる情報を超えて、対象をより直に捉えている。それを絵画あるいは彫刻(いや芸術作品)はいかに可能にするのか?

2|漱石と《f+F》

日本の近代文学を基礎づけたことで知られる文豪、夏目漱石(1867-1916)はロジャー・フライ(1866-1934)よりわずか2ヶ月遅れ1867年2月に生まれている。漱石の功績は20世紀以降の芸術を支配するモダニズムとよばれる一連の問題群をその基礎から構造的に把握し、批評、実作によって実践的に示したことにある。漱石によってモダニズム芸術の思想は世界同時性をもって日本に着床する。

fig.8《F》の推移を示す図夏目漱石『文学論』1907年

 1900年から3年間のロンドン留学を終え帰国後、漱石は文学の構造を、《f+F》の図式fig.8で分析する長大な文学論講義を行った(『文学論』として1907年出版)。《f》とは日々、感受されつづける無数の印象、感情(feeling)である。このとりとめなく数限りない感情の累積に対して、《F》は焦点を与え、一つの対象として統合する概念である。文学とはいわば感覚印象である《f》と概念像である《F》の函数として構成される。既存(集団で共有された)概念は、実際の経験、《f》によって疑われ解体されることもあるし、またfの集積はあらたなFを形成することもあろう。文学の流れはこの解体と構築のプロセスそのものを示す。漱石のこの《f》と《F》の理論は、T.S.エリオット(1888-1965)が後に提唱した《客観的相関物》(“objective correlative”)の理論を先取りもしていた。

 が、注目すべきなのは漱石の問題設定ははるかに後期印象派の理論にこそ対応していたということである。漱石の美術への洞察は『草枕』(1906)に明らかである。漱石は海外の美術雑誌を購読し、渡欧中も美術館などに足繁く通い美術や建築にも通じていたが、この小説はキュビスムそして抽象芸術が生じてくる理論的必然を理論的に予告している。

 語りの担い手は、日露戦争の徴兵から逃れ温泉町をおとずれたが、考えつめて絵を一枚も描くことができなくなっている画工(画家)である。漱石の文学論の図式を反映して、画工は絵の表現は物体を写すことと感情を発露させることの2極で構成される函数だと考えている。西洋の伝統では前者がまさり、東洋の伝統では後者がまさる。しかし、絵は一方のみでは成り立たない。そこで、ここにいまだ具体的な対象をもたない興趣というものがあり、もしこれを絵に定着することに成功するならば抽象画になるだろうと画工は考える。

この調子さえ出れば、人が見て何と云っても構わない。画でないと罵られても恨みはない。いやしくも色の配合がこの心持ちの一部を代表して、線の曲直がこの気合の幾分を表現して、全体の配置がこの風韻のどれほどかを伝えるならば、形にあらわれたものは、牛であれ馬であれ、ないしは牛でも馬でも、何でもないものであれ、厭わない。〜(中略)〜鉛筆を置いて考えた。こんな抽象的な興趣を画にしようとするのが、そもそもの間違である。人間にそう変りはないから、多くの人のうちにはきっと自分と同じ感興に触れたものがあって、この感興を何らの手段かで、永久化せんと試みたに相違ない。試みたとすればその手段は何だろう。たちまち音楽の二字がぴかりと眼に映った。
(夏目漱石『草枕』)

 つまり漱石はこの小説が書かれた1906年の時点で、やがて抽象画と呼ばれるものが出現することを、すでにはっきり予告していたともいえる。

 同時に逆のアプローチも示される。画工は彼が逗留する旅館の出戻りの女主人、那美という女性の顔を描こうと試みるが、その言動のとらえどころのなさに振り回されるばかりで一向に絵にならない。

この女の表情を見ると、余はいずれとも判断に迷った。口は一文字を結んで静である。眼は五分のすきさえ見出すべく動いている。顔は下膨の瓜実形で、豊かに落ちつきを見せているに引き易えて、額は狭苦しくも、こせついて、いわゆる富士額の俗臭を帯びている。のみならず眉は両方から逼って、中間に数滴の薄荷を点じたるごとく、ぴくぴく焦慮ている。鼻ばかりは軽薄に鋭どくもない、遅鈍に丸くもない。画にしたら美しかろう。かように別れ別れの道具が皆一癖あって、乱調にどやどやと余の双眼に飛び込んだのだから迷うのも無理はない。
(夏目漱石『草枕』)

 ようするに彼女の顔を特徴づける各々の要素は、それぞれが別の機能を持った存在として、勝手気まま(かように別れ別れ)に異なる働きを主張するばかりで一つのまとまった顔として像を結ばない、「乱調にどやどや」という記述は、あたかもキュビスムの絵を見たときに誰もが抱く印象を述べたようでもある(ピカソが「アヴィニョンの娘たち」を描いたのはこの翌年1907年である)。画工はこう考える。那美さんの顔が描けないのは、顔に現れているこの乱調を、手持ちの概念(理解)で代表的に表現できないからで、描くためにはこれらを束ねることのできる別種の、情が発明されないとならない。やがて、その情が那美さんの顔に現れるのを画工は発見し(彼はそれを《憐れ》と呼ぶ)、「それだ、絵になる」という確信を画工は得て、小説は終わる。

 漢詩、英詩などの異なる言語形式が翻訳もされぬまま、混在している『草枕』はそれ自体が実験的な小説でもあった。読者は話者(画工)が知覚あるいは想起するさまざまな異なる情報の並列、それを追う混乱、錯綜した思考の流れに寄り添わされる。しかし語り手自身がいうように、もし読者が作者の思考の流れと合致しようと望まないならば小説は初めから終りまで読む必要がない(たとえば夫婦になるという結論を望まぬほうが付き合いも会話もかえって面白いと画工はいう)。すなわち結末に収斂されないゆえにどこを読んでも面白い。つまりそこで得られる結論(落ち)と、小説の細部とその累積あるいは推移は一致しない、ことにこそ小説という表現形式の意味があると漱石は考えた。漱石は留学以前よりローレンス・スターン(1713-1768)の『トリストラム・シャンディ』に小説という近代的表現形式の原型の一つを見出していたが、漢文、英語などの異なる言語形式が混在した漱石の『草枕』も、『トリストラム・シャンディ』のように、それ自体が実験的な作品でもあった。小説はあらかじめ規定された結論に経験を到達=還元させてしまわないこと、つまり確定的ロジックで出来事を要約、結論づけてしまうことへの抵抗によって形成される。それを迂回させる潜在性の領域の自覚こそ小説によって与えられる経験の本質である。それこそが『トリストラム・シャンディ』に挿入された、抽象パターンfig.9fig.10fig.11LINKに内包されているものであり、その語りがたさこそが小説を可能にするものだった。

fig.9,10,11『トリストラム・シャンディ』に挿入された抽象パターン59-1767年「熊谷守一油彩画全作品集」求龍堂2004年

3|熊谷守一の《光学》

1903年にロンドンから帰国し、数年後には発表されはじめた夏目漱石の仕事は、若い芸術家たちの芸術理解を大きく変更するほどの影響力を持った(たとえば目の前に見えていると思っている対象の姿がいかに、脳が構成した像=イリュージョンにすぎないかを指摘する、名高い講演録「文芸の哲学的基礎」は東京美術学校での講演会を元にしている)。漱石の理論に触れた第一世代である津田青楓、坂本繁二郎、青木繁という世代が示した大きな展開=先行世代からの断絶は漱石の存在なしには説明できない。そのなかでも漱石の理論にもっとも本質的な影響を受けたと思われるのは熊谷守一である。

 たとえば─熊谷が人体デッサンの教室でひたすら三角や四角の幾何学的な線を消したり重ねたりしていて何をしているのかわからなかったが、のちに西洋にキュビスムが現れたのを知り、ようやく熊谷の先駆性を理解した─という、東京美術学校で熊谷と同級だった山下新太郎の述懐はよく知られている。0101|「熊谷守一油彩画全作品集」求龍堂もちろんキュビスムなどを持ち出す前に、熊谷の試行は、ずっと先行する葛飾北斎の「略画早指南」(1812)fig.12LINKLINKなどに参照されるべきだろう。重要なのは、北斎は『トリストラム・シャンディ』の挿絵を担当したウィリアム・ホガース(漱石も言及している)の『美の理論』(1753)以降、盛んに西洋で発行された絵画指南書を、同じく『芥子園画譜』(1679)などの東洋画の指南書とともに参照していたという事実であり、その意味で葛飾北斎の『略画早指南』の意義は、ホガースの『美の理論』や、さらには後の漫画家ロドルフ・テプフェール(1799-1846)のカリカチュア理論(『観相学試論』)が示していた通りに、うつろいゆく不安定な視覚印象を、一つの統合されたイメージとして定着させる記憶術にほかならなかった。fig.13《略画》とは現実を直接、観察して得られる、不安定な視覚印象データの累積から、むしろ距離をおいてなされる記憶を媒介した総合化=要約の方法だった。ホガース・カーブ(『美の理論』の扉に印刷された、あのピラミッドの中のSfig.14が、現実形態(見る位置、時間によって絶えず変化する)のどこにも存在しないが、その変化にもかかわらず、その変化すべてを統合する定式として、われわれの認識をまとめる力を持っていると考えられたのと同様である。漱石はこの統合を《F》といったのだ。

fig.12「略画早指南」1812年

fig.14『美の理論』の扉に印刷されたホガース・カーブ1753年

fig.13『観相学試論』に掲載された図版ロドルフ・テプフェール1845年

 事実、熊谷守一の写生の方法は変わっていて、いったん記憶に収め、咀嚼してから時を経てはじめられたという坂本繁二郎の証言も残っている。熊谷の長い画歴のはじめから最後まで、その関心は漱石理論における、この《f》と《F》、すなわち直接感受された感覚と認識される像の間の落差にあり、その制作はfとFを結ぶ錯綜した回路を整理し、それを新たに繋ぎなおす近道(ショートカット)を発見し、作り出すことだったといってもいい。

fig.15熊谷守一『轢死』、『庚戌白馬會畫集』1910より転載。1908年の文展で拒絶された後、熊谷守一は本作を別ヴァージョンで再制作、あるいは描き直し、ほぼ真っ黒に塗りつぶし、白馬会に再出品する。『此画は余り暗過ぎて何だか分らぬ。批評にも一寸困る』と白馬会評(国民新聞)の丹青子が嘆いているほど、その絵はもはや黒一色で何も見えず、さすがに検閲も不可能、拒絶もされなかった。つまり、ほぼ完全な黒一色の抽象に見えたということだ。tobunken.go.jp

 熊谷の転機になった「轢死」(1908) fig.15LINK は文展(1908)に出品したが展示拒否された、陰惨な主題の問題作であった(その後、おそらく描き直され1910年の白馬会に出品された)が、熊谷が当時記したノートは彼の関心が異なったところにあったことを伝えている。

fig.16熊谷守一の日記(明治35年から大正11年まで)

千九百八年十月五日、 轢死作品今見到丈付、其れを横に上下したときの感じ。大きな がけに、上下につり下がる。好く活動し、夢の様。悪まの様。別天地。つまり有り得るべ からざる様な自然の技
(『熊谷守一の日記』(明治35年から大正11年まで)岐阜県歴史資料館所蔵)fig.16

すなわち轢死体を描いた、この絵を、崖から吊り下げるように、90度、横倒しにして見ると、生きているように活動して見える、というのである。

fig.17階段を降りる裸婦,No.2マルセル・デュシャン1912年

 少し後の1911年12月のカンディンスキーによる抽象画発見のエピソード(アトリエに夕方戻ると、横倒しになった彼の絵が、誰の絵ともわからず生き生きと見えた)や、マルセル・デュシャンの『階段を降りる裸婦, No.2』(1912)fig.17LINKを想起させる逸話である。ありうべからざる様な自然の技、と彼が書いているのは、そもそも身体に則して考えれば、人間はさまざまな器官の集合体であるほかなく、その諸器官に分解された身体を一つの生きた有機体に束ねているのは、別の次元の原理(ベルクソンに倣えばエラン・ヴィタール)だという洞察に裏付けされていただろう。もはや『礫死体』は元の状態を保っていないが、この主題を継承して描かれた『水死人』 は熊谷の発想をさらに明確に展開したものだともいえよう。そこで溺死した身体はもはや全身の姿を失い、強く対照しあう色彩の斑点に戻されてしまっているが、その色斑の各々は強く輝き、かえって異様に生き生きした印象を与えるからである。

『草枕』には、主人公の画工が、東京では警察の思想調査が、あたかも本来かたちのない屁に、尻の穴が三角だの四角だのと型をはめて測定するがごとく行われていると説明する箇所がある、それを聞いた和尚は、むしろ日本橋の真中に臓腑をさらけ出しても平気になるような修業をすべきだと応答する。そして那美さんのとらえどころのない言動がその域に達した結果だと画工に示唆するのである。不定形とはむしろ身体の臓腑のさまざまの機能をそのまま野放図に投げ出せば自動的に得られる。そこに視覚で測量されるような統一された形などない。
 『三四郎』でも、とらえどころのない女性は主題の中心だったが、その女性の不定形を象徴するように、東京についたばかりの三四郎が下宿でまさに踏切で轢死する女性の叫び声を聞く場面が記述されている。熊谷が《轢死体》という主題を『三四郎』から得ていた保証はない(熊谷は1903年に実際の轢死を目撃しスケッチを残している。熊谷が実際に轢死を目撃した箇所は、三四郎が轢死の叫び声を聞いた場所とほぼ同じ本郷駒込だったから、漱石こそ、熊谷の話を小説に取り入れていたのかもしれない)。が、熊谷が礫死体のあと水死体へ主題を移行したことからも関連は充分にありえるといえるだろう。漱石の『草枕』には水死体=ミレーの描いた溺死したオフィーリアfig.19LINKについての言及がでてくるからである。溺死体を客体的に描くことへの疑問を呈したあとに、一方で水に浸って横たわっている溺死体の側から世界を見れば、主体(観察者)と客体(観察される事物)の区分が消えて風流だろう、という視点を転回することへとの示唆がある。奇しくも同じ年、ルドンは、自らの描いた花瓶の絵を横倒しにしてオフィーリアの顔を描き込んだ「花の中のオフィーリア」(1905-08)fig.20LINKを描いている。

fig.19オフィーリアジョン・エヴァレット・ミレー1851年–1852年

fig.20花の中のオフィーリアオディロン・ルドン1905年–1908年

 繰り返せば感覚されたものと認識されたものの落差が与える、経験の強度にこそ、熊谷守一の仕事の核心があった(その思考は60代をすぎてから実際の作品に結実する)。現実において、われわれの感覚が捉える対象はすでに何重にも解体されている。ゆえに対象は認識のなかで何度でも蘇生もする。

千九百十年九月十四日 連日の雨 夢の中真昼の光を見。后、目を開き天井を見る。暗の中うす明りに見ゆ(物を数ゑられる)。后、暗にて見ゑず ふ思議。多分以前の目にうつたものの再現か。
( 『熊谷守一の日記』(明治35年から大正11年まで)岐阜県歴史資料館所蔵)

 夢の中で見た真昼の光の残像を、真っ暗闇の中で目をさました熊谷は見たというのである。この残像は光学的なものでも生理的なものでもない、熊谷が見出しているのは、われわれの脳が直に把握しているところの知的構成物としての光である。

後に、熊谷守一は新印象派の光学理論の基ともなったヘルマン・フォン・ヘルムホルツ(1821–1894)の影響を受けていたと語っている。面白いことに熊谷はヘルムホルツの生理光学以上に、ヘルムホルツの音響生理学、統計力学へ繋がる自由エネルギーの考えに強い興味をもったようである。ラジオの周波数の研究に熱中して、ほとんど絵を描かない時期もあった。熊谷は、ヘルムホルツの弟子で、ドイツで純正調オルガンを完成させた事でも知られる田中正平やそれ以降の音楽理論家でもある颯田琴次などからヘルムホルツ理論を学んだと思われる。

 漱石が示したように、あらかじめ統一された対象が実体としてあるのではない。ばらばらに入ってくる感覚刺戟=感覚の断片が、それを感受した人の脳の中で知的に作りだす構成が対象である。この落差(プロセス)が絵画の力を作り出す。

4|恩地孝四郎と《感情》

一般に近代美術史は、抽象芸術は1910年から14年にかけて出現したと特定している。

『キュビスムと抽象芸術』展、ニューヨーク近代美術館、1936年のアルフレッド・バーによる名高いチャートfig.21では1910年頃と特定している。ちなみにカンディンスキー自身が世界最初の抽象と申告した「コンポジションⅤ」fig.22LINKは1911年制作(発表1911年12月)である。

fig.21Cubism and Abstract Art Chartアルフレッド・バー1936年

fig.22コンポジションVワシリー・カンディンスキー1911年

 しかし、もし抽象芸術の定義が、作品が外部世界に対応する視覚的参照物をもたないこと、つまり作品が外在する対象の姿を写していないことにあるのであれば、すでに書いたように抽象芸術を生み出すことになる問題群は、はるか以前から(西洋に特定されることもなく)用意されていたといえるだろう。視覚上の姿の類似性を追いかけることは必ずしも、その対象の実在性を把握することには繋がらない。その視覚的現れと認識されるもののズレ、反対にいえば、特徴的な視覚的現れ=姿を持っていないものでも芸術作品は表現することができる。

 夏目漱石の文学論における《F》にせよ、T.S.エリオットの《客観的相関物》にせよ、エズラ・パウンドの《イマジズム》にせよ、その要は、元々まとまりをもたない諸々さまざまな感覚、感情の集合を、一つの外的対応物を(仮設しそれを)通してまとめ=代表し表現することにあった。つまり表現されることではじめて、とりとめのない感覚、感情の集りは一つの特定の概念として定位されるということである。いうまでもなく、こうした思考にはシャルル・ボードレールから、フェリックス・フェネオンに至る、象徴主義(そしてアナーキズム)の問題群が継承もされている。見えるかたちとして、すでに成立している表現(代表)はいかなるものであれ、偶有的、仮の姿(仮象)でしかありえない(必然的ではない)。いいかえれば見える姿としては代表し表現することのできない、はるかに広い潜在的な領域こそが実在する。その実在はいかに把握されうるか。その能力が象徴あるいは抽象に託されている。

fig.23もたれて立つ人萬鉄五郎1917年

 その意味で抽象芸術は必ずしもキュビスムの展開として出現したのではないし、むしろ(ピカソやブラックを考えれば明らかなように)キュビスムからは抽象は直接的には派生しえない。反対にキュビスムこそが、抽象が発生する前提である表象システム=可視的な形象として何かを表現、代表するという仕組みへの懐疑、不信を共有し、その同じ土台から分岐して派生したと見るべきだろう。

キュビスムから抽象絵画への時間的展開のこうした錯綜は日本においてはっきり現れている。すなわち様式としてのキュビスム(キュビスム的スタイル)があらわれる最初の作例は、萬鉄五郎の『もたれて立つ人』(1917)fig.23LINKとされるのに対して、日本で制作された最初の抽象作品は、恩地孝四郎の『あかるい時』(1915)fig.24など『抒情』シリーズ(1915)fig.25fig.26fig.27fig.28とみなされるからである。欧米での抽象表現の出現とほとんど時間差のない恩地孝四郎(1891-1955)の抽象絵画の出現(たとえば恩地の抽象作品はマレーヴィチの非対象絵画fig.29とほぼ同時か、やや先行し制作されている)は、ゆえに唐突すぎるとも考えられてきた(例によってなんらかの欧米の先例を参照しただろう、という推測をもとにした探査も行われてもきたが彼が当時、参照できたであろう、これといった図版など資料は見つかっていない)

fig.24抒情あかるい時恩地孝四郎1915年

 だが、すでに述べたように、日本においても、キュビスムの様式的受容以前に、抽象表現の創出を必然として要請する思想的土台は充分に整っていたのである。

fig.25抒情IVのぞみすてず(『月映』II)恩地孝四郎1914年

fig.26抒情いとなみ祝福せらる(『月映』VI)恩地孝四郎1915年

fig.27抒情慈に泪す恩地孝四郎1915年

fig.28抒情躍る(『月映』VI)恩地孝四郎1915年

美術に限ってもキュビスムの紹介に先立って、イタリア未来派の宣言文は発表されてほぼ同時に森鴎外によって日本に翻訳されてもいる。未来派の主張は当時の日本の文芸理論の文脈からみて容易に理解できるものだった。

fig.29青い三角形と黒い長方形のあるシュプレマティズムカジミール・マレーヴィチ1915年

 恩地孝四郎の抽象作品創出を可能にしただろう、下地は二つ考えられる。

 一つは象徴主義から神秘主義的思潮への傾倒である。これは恩地が田中恭吉、藤森静雄と創刊した『月映』fig.30fig.31という詩誌に含まれていた傾向でもあった。『月映』は北原白秋、萩原朔太郎、室生犀星、山村暮鳥という同時代の詩人たちの仕事との共鳴をもって結成されたが、これらの詩人たちの仕事はいまだ表出されなかった感情、思考の流れを強い視覚的イメージによって喚起、結びつけることにおいて、象徴主義からイマジズムへの架け橋をするような新しさがあった。『月映』はそれに呼応し、見慣れた外部世界には対応物をもたない、より喚起力のあるイメージの創出こそを目指したのである。この時代、すでにウィリアム・ブレイク、オディロン・ルドン、エドヴァルド・ムンクといったビジョナリー(幻視者)の作品は好んで紹介されていたし、加えて、神智学を含むヨーロッパの新しい神秘主義的思潮とも共振するスピリチュアリズムは流行の域にまで達していた。

fig.30『月映』VI1915年

fig.31『月映』VIポスター1915年

前述の熊谷守一の日記がすでに示していた、外的現実から切断された無意識的領域における把握(あるいは直感的認識)、より内発的に把握されるイメージの統合性への関心は、若い芸術家たちに共有されるものになっていた。視覚が捉える外部世界を反映するのではなく、反対に、内的になされた経験の視覚的対応物=象徴を内から外へ表出する、表現主義の理論的根拠あるいはその極点として神秘主義への傾斜は必然とも見られていた。

この観点から見れば、突発的にも見えた、恩地の抽象絵画の創出は、スウェーデンのヒルマ・アフ・クリント(1862-1944)LINKが、ヨーロッパ画壇の流れと直接的関係を持たず創出した世界最初の抽象表現(クリントはすでに1906年には抽象表現fig.32 fig.33 fig.34 fig.35 fig.36 fig.37 fig.38 fig.39 fig.40 fig.41 fig.42を行っていた)や、アメリカ合衆国のアーサー・ダヴ(1880-1946)LINK続いてジョージア・オキーフ(1887-1986)LINKが生み出した抽象表現fig.43fig.44など、世界各地で離散的、突発的に出現した抽象表現と共通する思潮=問題群を基盤にして生み出されたと見ることができるだろう。

fig.32Urchaos, Nr.3, GruppeI, Serie WU/Die Rose1906年

fig.33Urchaos, Nr.16, GruppeI, Serie WU/Die Rose1906-07年

fig.34Der Siebenstern, Nr.2, Gruppe V, Serie WUS/Der Siebenstern1908年

fig.35Der Siebenstern, Nr.13, Gruppe V, Serie WUS/Der Siebenstern1908年

fig.36Der Siebenstern, Nr.14, Gruppe V, Serie WUS/Der Siebenstern1908年

fig.37Aus einem Notizbuch, 25. April 1909

fig.38Der Schwan, Nr.13, GruppeIV/SUW, Serie SUW/UW1915年

fig.39Der Schwan, Nr.17, GruppeIX/SUW, Serie SUW/UW1915年

fig.40Nr.112, GruppeIII, Parzifal-Serie1916年

fig.41Ausgangsbild, Nr.1, SerieII1920年

fig.42Nr.3d, SerieV1920年

ヒルマ・アフ・クリント(1862-1944)は1887年にスウェーデンの美術アカデミーを卒業後、肖像画家、風景画家として、この時代の女性としては例外的に選ばれた職業画家としてキャリアを出発させていた(アウトサイダー・アーティストと見なされる反対の出自を持つということだ)。その後ブラヴァギの神智学に触れたことから彼女の仕事は大きく変わる.4人の女性メンバーと「ファイブ」というグループを結成し降霊会に参加しつつ最新技術であったレントゲンや遺伝学など自然科学の新しい知識が、クリントの不可視の力への関心とそれを感受する能力を研ぎすまさせる。直感がとらえた神秘的秩序が自動的に表出されるような表現方法で抽象絵画を描くようになる。1905年に始められた197の作品による「神殿のための絵画」の多くはすでに完全な抽象絵画であった。ルドルフ・シュタイナーは1908年ストックホルムを訪れた際にクリントのアトリエをたずね、その抽象作品に感銘を受ける。その後、クリントのシュタイナーへの私淑をもとに両者の交流がはじまるが、抽象芸術の創始者とみなされてきたカンディンスキー、モンドリアン、マレーヴィチ、ロベール・ドローネなどはみな大きな意味でのスピリチュアリズムなかでもシュタイナーの人智学の感化を受けており、そのシュタイナーは彼らが抽象表現を始めるまえにヨーロッパの中心から離れたスウェーデンでクリントの抽象作品に触れ(いわば発見した)、その彼女の仕事を咀嚼、理論化し、間接的であれ彼の色彩理論ほか造形理論への展開として様々な場面で紹介もしたはずである。そのシュタイナーの影響を受けたのがむしろカンディンスキー、モンドリアン、マレーヴィチたちだったというわけだ。クリントの仕事は彼女の死後20年間は発表しないという遺言がなされ、生前その作品を知る人は限られていたが、それがクリント個人のみの意志によるものなのか、シュタイナーなどの助言も含まれていたのかどうかは定かではない。

fig.43Nature Symbolizedアーサー・ダヴ1911年

fig.44Music—Pinkand Blue No.2ジョージア・オキーフ1918年

たとえば『月映』もその影響圏下に含まれる、この時代もっとも影響力をもった文芸誌『白樺』のメンバーで後に民芸運動を主宰することになる柳宗悦は、その思索をウィリアム・ブレイク研究からはじめている。そしてベルクソン、ウィリアム・ジェイムズなどの生命論を経由し、柳の最初の著作はヨーロッパを席巻しはじめた心霊研究を含む、《疑似》科学的神秘主義─彼はこの動向を新しい科学と呼んだ─を論じる『科学と人生』(1911)だった。ここにおける柳の関心は、理性による統御、間接的になされる知ではなく、物質と身体のより直接的交流として成立する心霊現象にあった。意識による媒介、解釈を通さず(意識には感知されえない)、事物、物質との直接交流こそが意識の限界を超えた直接的知と理性を超越する倫理性を可能にする、という考えは、後の民芸─無名の工人たちによる制作物に対する柳の考えにも受け継がれることになる。

 恩地の抽象表現を可能にしただろうと想定される下地の二つ目はフリードリッヒ・フレーベル(1782-1852)の『恩物』(ガーベ)fig.45 fig.46 に代表される幼児教育遊具の影響である。もちろんフレーベルの教育メソッドが、ロマン主義から象徴主義への思潮を汲み、到達した《生の合一思想》《球体法則》という一種の神秘思想の上に構築されていたことを考えれば、一つ目と二つ目は通底している。

fig.45第一恩物フリードリッヒ・フレーベルお茶の水女子大学附属図書館蔵

fig.46第五恩物フリードリッヒ・フレーベルお茶の水女子大学附属図書館蔵

 フレーベルの幼児教育法は、すでに明治初頭の1876年には日本に導入され、フレーベルメソッドを適用した東京女子師範学校付属幼稚園(現在はお茶の水女子大学付属幼稚園)が開園していた0202|村山知義はこの幼稚園の出身である。(『演劇的自叙伝1 1901~21』東邦出版社 1974年)fig.47 fig.48 fig.49 fig.50 fig.51 fig.52 。1889年にはアメリカ人女性宣教師A.L.ハウによって神戸にフレーベルの思想の普遍に則りより柔軟に展開した頌栄幼稚園(GLORY KINDERGARTEN)も開園している(A.L.ハウはマリア・モンテッソーリの方法も取り入れている)。すでに20世紀はじめには全国各地にフレーベル式の幼稚園は広く普及していた。

fig.47幼稚保育図(部分)武村耕靄1890年

fig.48(上図拡大)

fig.49二十嬉遊図作者不詳明治時代

fig.50(上図拡大)恩物2で遊んでいる。

fig.51A gridded blackboard with examples of abstract “netdrawing” stands behind the orphans selected for the Centennial Exposition model kindergarte class.1876年

fig.52Unidentified New York kindergarten classroom1899年

 恩地の父、轍は元検事のちに北白川宮の家令を務めたあと東久邇宮、朝香宮の教育をまかせられた教育者でもあったし、恩地が慕った北原白秋も児童自由詩運動を主導するなど児童教育への傾注は知られている。そして、そもそも恩地の最初の著書も『幼児の世界及び育児』(著者名は恩地孝となっている。洛陽堂 1919年)だった。フレーベル研究を押し進め、日本のフレーベルと言われることになった倉橋惣三と恩地は多くの前衛画家たちが関わることになった1920年代に単なる児童書であることを超えて、多くの前衛画家たちが関わる文化的拠点ともなった『コドモノクニ』LINKなど児童教育に関わる場面で協働していた。恩地孝四郎の長男、邦郎 は北原白秋の子息、禅学者北原隆太郎と大正自由 教 育を代表する学園の一つでもある明星学園で同窓であり、その後東京美術学校を卒業し、画業を 続けつつ明星学園で教鞭をとる(やがて校長となる)教育者であり、基本的に教育者の家系であった。

自分自身にも説明できない憧憬が、かれを駆りたてて、特に自然の事物に隠れひそんでいる自然界の事物や植物や花などに、向かわせるのである。というのも、ある確かな感情が、かれに向って、心情の憧憬を充たしてくれるものは、外部に露に現れているものではない、それは隠れたところや暗いところから堀りおこされ、駆り出されるべきであるし、また当然そうでなければならないと語りかけているからである。
(フレーベル『人間の教育』荒井武訳)

捉へがたい感覺の記憶は今日もなほ私の心を苛いらだたしめ、恐れしめ、歎かしめ、苦しませる。この小さな抒情小曲集に歌はれた私の十五歳以前の Life はいかにも幼稚な柔順おとなしい、然し飾氣のない、時としては淫婦の手を恐るゝ赤い石竹の花のやうに無智であつた。さうして驚き易い私の皮膚と靈はつねに螽斯の薄い四肢のやうに新しい發見の前に喜び顫へた。兎に角私は感じた。さうして生れたまゝの水々しい五官の感觸が私にある「神秘」を傅へ、ある「懷疑」の萠芽を微かながらも泡立たせたことは事實である。   
(北原白秋『抒情小曲集 思ひ出』)

fig.53『感情』1915年

 1911年『抒情小曲集 思ひ出』以降の北原白秋の仕事の展開、同時期の恩地もその活動に関わった『感情』誌fig.53での萩原朔太郎、室生犀星の仕事にはフレーベルの著作、特に『人間の教育』、『母の歌と愛撫の歌』(1844)に呼応する表現が端々に見出される。そもそも《抒情》や《感情》という用語の使用法自体が、フレーベルが感情(『共同感情』など)という語に与えた独特な意味合いに重なりあっていた。感情とは自己と他者、自己と世界の分裂のみならず、自然における事物と事物の分裂をのりこえ、つまり万物を合一させる、神性を帯びた力だとみなされたのである。感情はあらかじめ万物に分配された神への憧れ、合一へ向かう力である。教育遊具はこの事物に共有された普遍的な概念をこどもたちに、教育遊具に働きかける行為(それは必ず、事物への語りかけをともなう)を通して具体的に、理解、分有させるものだった。

 恩地孝四郎作品へのフレーベル思想の反映は、恩地が婚約者小林のぶと同居し始めた頃に開始された、最初期の抽象作品の一つ『抒情』シリーズ(1915)にはっきり見てとれる。フレーベルの《恩物》を愛でるかのように恩地は自らの制作について書く。

fig.54第二恩物お茶の水女子大学附属図書館蔵

あらゆるものが生気を以て迫る。快美以上の美を以てかがやく。それらの力が私の生活を緊密にする。心の底から衝いて来る、感情の全体を一連の振動体とする。心が手に流れ、手が紙を走る。そうした所にわたしの抒情画が成り立つ、そこに作画の基因がある。
(恩地孝四郎「抒情画について」『感情』20号 1918年)

 感情を持つのは人間や動物のみでない。積み木、紙などを含めたすべての事物、万物が生気を持っている。万物がその生気を持って触発し、働きかけてくるのである。

 ゲーテの自然哲学を実装したともいえる、フレーベルの《恩物》と呼ばれる教育遊具(積み木などの玩具)は、調和あるいは運動あるいは数学的秩序などの抽象的=超越的な観念を、玩具を操作するという具体的、触覚的な身体行為を通してこどもたちに直感的に把握させようとするものだった。

 フレーベルの《恩物》の意義は、個々の積み木が静止しているときに現れている幾何形態そのものにあるわけではない。これを操作し、たとえば回転させるときに、まったく別の幾何的な秩序が出現することにこそある。その出現も理解もこの事物と身体行為の交流によってのみ可能になる。こどもたち、あるいは指導者は事物に代わって歌う。

ぐるぐるまわる、うれしいな 
ぐるっと向きをかえて うれしいな
赤ちゃん あなたもうれしいな 
(《恩物》2の歌『フレーベル全集』玉川大学出版部 1989年)

fig.55,56恩物の遊び方『フレーベル全集』玉川大学出版部1989年

こうして、こどもたちは事物の内側から対象の本質を理解することを促される。たとえば《恩物》2fig.54 fig.55 fig.56 の立方体、円柱、球の三種の幾何形態は、回転させると立方体は円柱に変容し、円柱を回転させると球と円錐が現れ、回転軸を変化させれば立方体の内側に球体が現れ、立方体に球体が含まれていたことが直感的に把握される。movie

movieフレーベル教育遊具の操作実演

 自然界に存在する全ての事物がそれぞれの個別性、多様性を保持しつつ、同時にそれぞれが互いに結合し、やがて一つに統一される性格(部分的全体性)をあらかじめ備えていたことを、こどもたちは事物と共に運動すること、事物と感情を通わすことで理解するのである(くりかえせば、つまり事物も感情を持つ)

 同じように、恩地のたとえば『抒情 相信ずるこころ』(1915)fig.57で重要なのはそれが版画つまり、複数の版の重ね合わせによって作り出された像である点にある。いいかえれば、上下二つの向かい合う大きな二等辺三角形、あるいはピラミッド状の小さな三角形と上から吊り下がる蒲鉾状の形態などは、それぞれ個々べつべつの版として、異なる版木の上にある。それが出会うのはそれらが重ねて刷られた紙の上だけである。まさに版木が重ねられることによって、タイトルに示されている通り、そしてフレーベルの《恩物》の回転が生み出すのと同じように、異なる版に彫られた幾何形態が融合して『相信ずるこころ』が出現する。

fig.57抒情相信ずるこころ(『月映』VI)恩地孝四郎1915年

 恩地孝四郎の生涯に亘る版画作品制作で際立った特徴の一つは、版画が多数の複製を可能にする複製技術であるという通常の先入観と異なって、一枚のみの完成作しか制作しないことが多かったということである。

fig.61抒情「あかるい時」版木恩地孝四郎1915年

 つまり恩地には版画が複製(マルティプル)技術であるという性質への拘りがあまりなかった。むしろ彼が熱中したのは、異なる複数の版がパズル(フレーベルの《恩物》7の色板fig.58 fig.59 fig.60 のように組み合わされることで一枚の画が創出される過程にこそあった。fig.61恩地が後に書いているように恩地にとって版画の最大の特性は、通常の絵画が一枚の画面しかもたないのに対して、版画は一枚に見えるが実際は複数の版面を重ねている以上、複数の絵画を同時に見せる経験だということにあった。ゆえに絵画が一本立てだとすれば、版画は数本立てである、と恩地は映画館の上演になぞらえて書いてもいる(「版画というもの」)

fig.58第七恩物お茶の水女子大学附属図書館蔵

fig.59第七恩物お茶の水女子大学附属図書館蔵

fig.60第七恩物お茶の水女子大学附属図書館蔵

 つまり版画は複数の別の画面を重ねて、一枚の画面を作り出す、統合の芸術だということだ。最後に統合されて出現するイメージは元の個々の版木のどこにも存在しない。まさにフレーベルの《恩物》(積み木)の幾何形態を回転したときに現れる像と同様である。イメージは版を刷るという作業の中でのみ現れる僥倖だった、ともいっていいだろう。

 20世紀に誕生した抽象芸術にフレーベルの教育装置が与えたはずの影響を指摘する研究はノーマン・ブラスターマンの『幼稚園の発明』(Inventing KINDER GARTEN 1997)によって先行的になされている。ノーマンが述べるようにフレーベルの幼児教育システムは芸術運動よりもはるかに国際的な広がりをもって各地に浸透していたし、そのシステムがより基礎的かつ普遍的であるゆえに、そこで行われた芸術演習は確かにいかなる美術教育よりも根本的な影響力をもったはずである。ノーマンは、母から受けたフレーベル教育の影響を自ら告白していたことで知られるフランク・ロイド・ライトの他にも、モンドリアン、カンディンスキー、クレー、ル・コルビュジエなど、フレーベル出自の《キンダーガルテン》に通ったアーティストをリストアップし、彼らの作品とフレーベルの恩物などのカリキュラムとの相関性を分析している。その相関性は明らかだが、にもかかわらずフレーベルの幼児教育メソッドの影響が正当な美術史的な考察から漏れつづけてきたのは、、彼らが影響を受けたのが幼い頃であり、自覚的な記憶が曖昧であること、そして3歳から7歳までの幼児の段階での学習など、とるに足りないものとする学術的な偏見に由来するだろうとノーマンは書いている。この意味でいえば、フレーベルが強調したようにフレーベル・メソッドをこどもたちに伝えるサポーターとしての役割が与えられた母親たち、女性たちこそはこのメソッドをこどもたちと同等以上の当事者として、フレーベルの方法を自覚的に身につけたはずであるし、日本のフレーベル主義者倉橋惣三とともに幼児教育装置の創案に熱中した恩地や北原白秋などの日本の前衛芸術家たちは、教育を受ける側の子供たちよりも自覚的にこの方法の影響を受けていたはずだということもできるはずである。

 さらにノーマンの指摘に加えれば、美術史的な研究からフレーベルの教育遊具の考察が漏れたのは、フレーベルの教育メソッドが、そのメソッドの骨格をなす遊戯=作業も《恩物》による演習も決して視覚的イメージに還元できるものではなく、事物との協働という身体行為を伴う具体的なプロセスにこそ重点が置かれていたからだろう。つまりフレーベルの演習で把握される認識は決して視覚性に位置づけられるものではなかった。いいかえれば、その演習作業のなかで、むしろ視覚や触覚が感覚できるのは、最終的に具体的な経験として直感される大きな秩序の部分でしかない。フレーベルは、たとえ、それが部分的な知覚であるにせよ、その部分が必ずより大きな全体の秩序に連なっていくという、プロセスの確実性=リアリティこそが具体的に触知されること、把握されることを示そうとしたのである。ゆえに、もしフレーベルの教育メソッドが抽象芸術に影響を与えたとすれば(きっと与えたのだが)、そこで把握されるだろう抽象芸術の本質は決して視覚的対象つまり従来の意味での美術作品には還元されるようなものではなかった。

 それは身体行為をともなった事物と事物との交感のプロセスであり、そのプロセスが提示する方向=力そのものである(そこで発現されるのは表現者が事物を通して何かを表現する、という非対称的な関係ではない。そもそも全ての事物に備わった共感=連携する力としての感情であり、その連関性である)

 その統一へ向かう力がいま知覚されている部分をここにはない他の部分へ連結させ、やがて全体の把握へと到達させる。つまりフレーベルのいう《部分的全体》こそ、フレーベルによって示された抽象の本質だった。美術史が扱い得なかったのは、この視覚的対象としては定位することのできない抽象の本質であった。

5|第一次世界大戦とダダイズム

第一次世界大戦(1914-18)は美術表現にも大きな影響を与えた。とくにキュビスムは第一次世界大戦によって方向転換を余儀なくされ、その形式のままの延長的展開は断ち切られたといってもいいかもしれない。ピカソの古典主義スタイルへの転向はそれを明瞭に示してもいるが、その方向転換は、第一次世界大戦にはっきり示された知覚の変化にこそ由来する。

 第一次世界大戦に示された知覚の変化は、新しく出現し、使われるようになった、毒ガス、塹壕戦、潜水艦、航空機、戦車という兵器に示されている。これらの兵器で構成される、新しい戦場において、もはや敵の姿は見えなかった。対象=敵に向かいあって照準を定め攻撃する、という戦闘のモデルはそこにはすでにない。敵の姿は見えず、つまり図として敵は現れず、むしろその背景をなす地、すべての面が戦場となった。敵は見えないまま、環境全域に確率的に存在するものとして捉えられるようになった。

 ガートルード・スタイン(1874-1946)は、ピカソが目の前を通る迷彩模様で覆われた戦車を見て「見ろ、あれは俺たちが作ったんだ」と興奮して述べたと記しているが、事実、エドワード・ワズワース(1899-1949)LINKなど《ヴォーティシズム》の画家たちは自分たちの理論と技術を、迷彩模様作成に率先して提供していたのである。彼らの発明した迷彩模様は画期的だった。彼らは、船舶を隠すものが何もない、海上で、目標船舶の方位、距離を目測する敵照準兵を撹乱させる錯視パターンを案出したのであるfig.62。こうしてキュビスムが行った視覚像の解体は、文字通り実在を欺く視覚的効果として、戦場で応用され浪費されることになった。視覚形式としてのキュビスム・スタイルの濫用はさらに第一次世界大戦後のアールデコ・スタイルの流行で加速する。流線型も、デジタルでリズミックに見える表現も実際の機能とは結びつかない。むしろ機能を偽りメカニックな印象を誇張する装飾効果として利用された。キュビスムは装飾様式として消費され、視覚芸術の前衛としての役割を失う。

fig.62Phtograph of the USS West Mahomet in dazzle camouflage1918年

 そもそも第一次世界大戦において、多くの芸術家たちは反戦的どころか厭戦的ですらなかった。戦争を賛美する《未来派宣言》に顕著であったが、未来派に限らず当時の前衛芸術家たちは多かれ少なかれ、戦争が、分裂し断片化を爆発的に加速するばかりであった世界を再び、一つの運動に結びつける契機であると捉えていた。ゆえに多くの芸術家たちはみずから志願して戦場に赴きもしたのである。

 彼らが魅せられたのは知覚を超えて、あらゆる事物を強引に連結し、巻き込んでいくような機械的なダイナミズムだった。その結果、視覚によって何かを再現すること、表現することはその意義を失い、芸術家たちの関心から外れていった。新たに芸術家たちが希求しはじめたのは芸術作品が機械のダイナミズムに直接的、具体的に連結する可能性だった。その意味で第一次世界大戦によって露呈された非人間的な力、残虐性は芸術を唯物論に結びつける契機であった。すなわち一方でマルクス、他方でフロイト。どちらも《物質》に先行する精神があるのではなく《物質》こそが精神に先行する、精神を規定するインフラ(基盤)は《物質》であり、《物質》の諸条件こそが精神のあり方を決定すると考えることでは共通していた。ロシア構成主義は現実的な《物質》基盤の転換という目的において、政治革命と芸術革命が重なりあうことになった稀有な例だったが、第一次世界大戦時に生まれた新しい芸術運動はいずれも《物質》こそが精神を規定するという、認識を共有していたといえるだろう。かつてアプリオリなものとして見なされていた主体(そしてそれを自覚する自己意識も)は、政治制度を代行するエージェンシー、政治的統制の媒介としてしかその意義を認められなくなった。意識を通してわれわれの身体は制度に間接的に統御支配されるのである。

 その意味で第一次世界大戦中に活動が開始された芸術運動で最も独創的だったのはダダイズムだった。構成主義が現実的な制度改革と芸術改革の重なることを夢見た運動だったとすれば、ダダ(特に1916年にチューリッヒのキャバレー・ヴォルテールを拠点として誕生した《チューリッヒ・ダダ》)は第一次世界大戦中に唯一、反戦と反芸術(と称されたその活動)が思想的中心において重なった運動だったといっていいだろう。ダダにはニヒリズムもシニシズムも存在しなかった。その根本にあったのはあらゆる主体の破壊、自己意識つまり主体による中枢的統御の解体だったが、その結果、出現したのは驚くべき能産性であり、ユーモアだった。

 何かを何かが代表することへの反対─ダダの思想を一言にまとめればこうなるだろう。もちろん、そこには自分が自分を代表することも含まれる。当然、代表することを目指して行われる権力闘争などは徹底的に批判される。そして芸術作品が何かを代表すること、すなわち権威を代行することを意味するのであれば、芸術が批判されるのはいうまでもない。

 繰り返せば、だがこうしたダダの思考は決して非生産性をもたらすものではなく、むしろ反対だった。よく知られるように、ダダは日常生活のこまごました雑音、とりとめのない人の行動、どうでもいいような小さな生産物に注目したが、権威や権力を代表し表現するモニュメンタルな芸術作品=《大芸術》(グレートアート)ではなく、日々の暮らしを形づくる=《小芸術》(レッサーアート)を重視することはウィリアム・モリス以来の《アーツ&クラフツ・ムーブメント》からウィーン工房に至る流れを引いていたともいえよう。視覚的対象として特化されず、日常的な生活場面での、むしろ身体的行為に組み込まれた無意識的な感知、接触こそを主にするこれらの生産物は、ゆえに応用芸術あるいは工芸として見下されてもきた。がこれらは何もとりたてて代表していないが、身体と共に活動、機能するという具体性を持っている。身体の各部分はそのつど、それぞれの事物と協働して行為を遂行する。ときに互いに意識せず、同時に複数の行為を一つの身体が遂行していることもある。つまり身体各部分は意識の中枢的な支配を逃れ、行為ごとに、そのつど自律的無意識的(互いにばらばら)に、その編成を解体、変化させ事物との協働作業を行なう。

 ゆえにゾフィー・トイベル゠アルプ(1889-1943)の存在は、以上のようなダダの前衛運動としてのユニークさを決定づける重要さを持っていた(加えれば、ダダは当時の前衛芸術運動としては例外的に多くの女性アーティストが参加していたことも特記される)

 
 
 

  fig.63Costume “Hopiindian”1922年頃  

 
 
 
 

  fig.64ゾフィーがデザインした家具1928–1930年頃  

 

 ゾフィーは少女時代からアメリカ・インディアン文化に傾倒しfig.63、ミュンヘンのW.ドゥブシッツの主宰する美術工芸学校でインテリアデザイン、家具デザインを学んだfig.64。1911年からはルドルフ・ヴァン・ラバン(1879–1958)fig.65LINKLINKに師事、建築を学び、1915年にはハンス・アルプ(1886-1966)と出会い生涯の伴侶となった。同年に芸術コロニーで知られるモンテ・ヴェリタにラバンが開いた芸術学校に参加、ラバンの主宰するダンスシアターで《ノイエ・タンツ》の創始者と知られるマリー・ヴィグマンfig.66、ベルテ・トリュンピなどと共にダンサーとなる。1916年にはじまるキャバレー・ヴォルテールでゾフィーは舞台デザインを担当し、パフォーマンスのスコアを記し、演出し、また自作の人形劇を上演し、そして踊った(ヴィグマンたちもキャバレー・ヴォルテールの活動になんらかのかたちで参加していた)。キャバレー・ヴォルテールに参加した芸術家たちの多くは詩人たちであり、実際の舞台美術やパフォーマンスの経験を持つのは主要メンバーではほぼゾフィーだけだった。ゆえにフーゴー・バル、トリスタン・ツァラなどダダのメンバーはゾフィーの豊かな創造力に感嘆し、彼女の演出に頼り、また彼女のパフォーマンスに熱狂した。

 ゾフィーはダダの活動と平行し、1917年からチューリッヒ美術工芸学校で建築、テキスタイルの主任教員として教鞭をとりはじめる(ハンス・アルプが美術に関する理論はすべてゾフィーから習ったと告白している)。さらに1918年にはモンテ・ヴェリタに結成された日常生活そのものの改革を目指す“DAS NEUE LEBEN”《新しい生活》運動に主要メンバーとして参加する。

 ゾフィーの活動を通してみれば、反芸術運動として知られるダダの活動が、むしろ日常、実生活的な場面で極めて生産的であり、ポジティブだったことがわかる。その生産性は応用芸術と身体芸術を結びつけることができたゾフィーの経験知、テクネを軸に回転していたともいえるが、にもかかわらずダダが反芸術であるとみなされるのは、応用芸術も身体芸術も芸術の周縁にあるものと見下されていたからに他ならない。ダダとはその周縁からの反撃だった。

 たとえばダダは偶然性の導入を好んだが、より正確にいえば全体を一望できる(そして統制するような)視点を拒否したのである。全体が見渡せず(全体との関係を見ることも、考えることなく)、つまり自分がやっていることがどのように全体から見えるか考えずに、そのとき個々がいる場面での個々の行為にだけ賭け没頭する。全体との関係は保証されず切断されているとき個々の行為は偶然的、恣意的になるとも思われる。ところがクラフト(工芸制作)の場面ではこうした制作方法はむしろ一般的である。テキスタイルあるいはモザイクの制作場面でも、職人たちが全体を見ることはむしろ例外的であり滅多にない。各自が部分のみの仕事に没頭しながら、なお全体の秩序は形成される。舞踊においても同じである。踊っているダンサーはそもそも自分の姿を見ることはできない。ましてや複数のダンサーたちが演じる舞台の全体を見渡す視点をダンサーたち自身は持つこともできない。しかしながら職人もダンサーもこうした全体を見渡す観察者の視点を持たずとも、それ以上に確実に自分たちのやっていることを把握している(ゆえに制作はできる)。視覚によらず把握しているのである。

 一瞥すると個々の関係は偶然にも感じられるが、にもかかわらず、その偶然的(それぞれの部分が勝手きまま=自律的)なそれぞれの部分の配置、関係は、視覚を超えた必然を開示する。その必然とは、それ(事物)はたまたま今そこにあるにすぎず次の瞬間には他の場所に移動、転位するだろう、あるいはそれは他のかたち、事物に置き換わるだろうという変化の確実性、運動の必然である。重要なのは職人にしろ、ダンサーにしろ、その必然をまさに自らの身体の必然、行為の道理として極めて具体的に確信している、把握している、ということである。まさにゾフィーが憧憬したアメリカ・インディアンのホピ族の文化における、カティナへの憑依のように。0303|Sarah Burkhalter “Kachinas and Kinesthesia: Dance in the art of Sophie Taeuber-Arp” Sophie Taeuber-Arp Today is Tomorrow

 
 
 

  fig.65ルドルフ・ヴァン・ラバン1930年  

 

 ゾフィーの師事したラバンは《ラバノテーション》と呼ばれる独自のダンス記譜の発明でも知られているが、そのアメリカ・インディアンのテキスタイルを思わせる図形パターン、またその図形と身体運動が(まさにテキスタイルでパターンが織り上げられていくプロセスのように)対応し生成していくあり方fig.67fig.68fig.69にも、ゾフィー(ゾフィーは1915年ラバンのワークショップの記録をまかせられていた)からのラバンへの関与は感じられる。

fig.67Choreographic notations for Agamemnons Tod(Death of Agamemnon)ルドルフ・ヴァン・ラバン1924年

fig.68Choreographic notations for Agamemnons Tod(Death of Agamemnon)ルドルフ・ヴァン・ラバン1924年

fig.69Excerpt from Schrifttanz(quarterly publication by Deutsche Gesellschaft für Schrifttanz, no.1, July 1928, Vienna: Universal Edition A.G.)1928年

fig.66Dancer Mary Wigman1917–1918年

そもそもラバンはダンスのみならず日常生活すべての場面を、身体行為を決定づけている同一の構造で捉えようとしていた。身体と空間は、身体の態勢を形成するエフォート(感情をともなった志向性)のさまざまなスペクトルによって構造づけられる。事物と人間、事物と事物の関係を行為のネットワークとして捉える方法は、フレーベルが《共同感情》という語で捉えようとした構造とも呼応していた。また、そもそもゾフィーの制作はフレーベルの《教育遊具=恩物》の与える演習と構造的に近似していた。事物との関わり、あるいは事物と事物が生成させる関係はあらかじめ事物それ自身に内在し事物自身が直接示しているのであり、それに関わる者はそれらの事物に内在する指示(フレーベルの語でいえば感情、ラバンの語でいえばエフォート)を直感で受け取り、従えばよい。

 ゾフィーの作品、たとえば『段階的な配置』fig.70を見てみよう。この作品の制作過程を蒲鉾的なボリュームをスライスし箱に納めていく作業になぞらえてみよう。その作業の過程で全体のバランスなどを考慮しなくてもいいだろう。個々のパーツ(スライス)の角度がギッコンバッタン傾いていても構わず最後まで詰めていけば必ず箱に収まるからだ。個々の位置、角度が、いきあたりばったり決められたとしても一つのパーツの位置は次のパーツの位置に影響を与え、こうして相互に押し合うように規制は連続し、結局のところ全体は見事一つの秩序に収まるだろう。すなわち全体を視覚的に眺めて構図を決めるよりも、いわば個々の事物が示す具体的な要請に沿って(手の触覚に従って)仕事をすすめたほうが効率もよく、最終的に整合的な秩序が産み出される。一望的な視野からトップダウンで決める秩序ではなく、個々の部分の相互関係からボトムアップで決められる秩序ともいえるだろう。これは決してデタラメな方法ではない、むしろ作業の必然に沿っている。

fig.70Mouvement de lignes en couleursゾフィー・トイベル゠アルプ1940年

fig.70Mouvement de lignes en couleursゾフィー・トイベル゠アルプ1940年

fig.71Mouvement de lignesゾフィー・トイベル゠アルプ1939–1940年

 概して、ゾフィーの作品(ハンス・アルプにも共通する)の特徴は中心もなく、不変の平面(基底面)に固定化されることもなく、さまざまな要素と要素が各々の関係=ユニットを作り、そのユニットがネット状、ラティス状にゆるく連結され、ところどころ絡みあいつつ重なりあっているところにあるfig.70fig.71。特定の面に固定されず中心もない(ネットワーク的な連結である)ゆえに、その構造は伸縮し動き回っても維持される。舞台の上でたくさんのダンサーがそれぞれ小さな関係=ユニットを作りつつ、それぞれ別の動きをして、なお秩序が維持されているように。つまり以上の関係が確保されさえすれば、複数の人間による共同作業になっても構造は維持される。ゾフィーはゆえにハンス・アルプと協働し、またドゥースブルフなど多くのアーティストと協働することが可能だった。一方で、テキスタイル、インテリア、コレオグラフィ、人形劇、など多彩な広がりをもつゾフィーの作品群はゆえに応用美術的展開=周縁的制作として見なされ、美術作品としての正当な登録がなされないできた。見逃されてきたのは個々のユニットを結びつけていた身体的な具体性、力とその運動である。

 E.H.ゴンブリッチの『棒馬 あるいは芸術形式の根源についての考察』(1951)は(ゴンブリッチはダダ論だと明示はしていないが)、ダダの表現の核心をついていると見なされる考察である(フランス語においてdadaとは文字通り、棒馬を意味する)。

 ゴンブリッチはこの論文で、芸術表現に、代表/表現(representation)モデルではない別のモデルがあると提示する。それは何かを模倣するのではなく、その事物とそれに関わる主体との関係そのものを組織する。たとえば金槌とは形態ではなく、金槌としてそれを使うこと、その機能それ自体をいう。当然すでに金槌が世界に存在したとしても金槌をつくることは模倣ではなく(従って、そのかたちがまったく違っても)それが金槌と使われることによって本物とみなされる。いっさい馬のかたちと類似性を持っていない、ただの棒がこどもたちにとって馬なのは、それに実際にまたがって走ることができるからなのであり、馬とはこどもたちと事物の関係、またがって遊ぶ行為そのものを呼ぶのだ。事物の認識はこの関係によってこそ行われるのであって、実は見かけ上の類似性などは意味をもたないのである。抽象とは外観に現れたかたちの抽出ではなく、この具体性にもとづいた認識であり、判断である。

 一言でいえば、それは身体行為に組み込まれる道具のようなものだ。いや道具こそが身体行為を規定し、道具に沿って(効率よく)身体が動くことを導きもする(それは道具たとえば金槌が他の道具たとえば釘や木材などと関係し合うことと違わない、人間もまた同等の道具=事物として、その関連に関わる)。

 むしろ身体の諸性質は道具との触発によってはじめて生起させられるのだから、道具の中に身体が潜在しているとさえいえるだろう。道具を持てば誰の身体であれ同じように行為する。身体は道具によってはじめて具体化される潜在性である。

6|《ピュトー・グループ》

すでに述べたように第一次世界大戦を契機にして、視覚芸術の革新としてのキュビスムの影響は前線から退く。キュビスムの余波がどう転換していったかはキュビスムから派生した《セクシオン・ドール》グループSection d'Or (1912-14、彼らの集ったパリ郊外の地名に則して《ピュトー・グループ》とも呼ばれる)によく示されている。大戦前の短い活動期間のグループに関わったメンバーをリストアップすると、ランティセック・クプカ(Frantisek Kupka 1871-1957)、フェルナン・レジェ(Fernand Léger 1881-1955)、アルベール・グレーズ(Albert Gleizes 1881-1953)、ジャン・メッツァンジェ(Jean Metzinger 1883-1956)、ルイ・マルクーシ(Louis Marcoussis 1883-1941)、フランシス・ピカビア(Francis Picabia 1879-1953)、アンドレ・ロート(André Lhote 1885-1962)、アレクサンダー・アーキペンコ(Alexander Archipenko 1887-1964)、レイモン・デュシャン゠ヴィヨン(Raymond Duchamp-Villon 1887-1918)、ホワン・グリス(Juan Gris 1887-1927)、マルセル・デュシャン(Marcel Duchamp 1887-1968)である。

 中心メンバーのグレーズ、メッツァンジェによる論考『キュビスムについて』(1912)fig.72LINK はこのグループの一つの理論的前提を示しているが、彼らはここでキュビスムの可能性の本質を、非ユークリッド幾何学を例にとり、視覚に依拠するのではなく触覚や運動感覚などの全感覚にもとづき、その本質は変換可能な動的な空間の把握にあると考える。二人はいう─外観に現れた形態や色彩は他の形態との接合によって破壊されることも逆に強調されることも、増殖あるいは消滅することもあるが、同じ楕円を内包する多角形は他の多角形に見かけを変化させても楕円を内包することにおいて、その本質は同一に留まる。形態変換のダイナミズムを視覚は捉えることができない。それは触覚や運動感覚の問題なのだ。すでにここにはアンリ・ポアンカレなどの射影幾何学(あるいは実際に《ピュトー・グループ》に関わりポアンカレの数学理論をメンバーに教示していたともいう数学者モーリス・プランセ)の影響がはっきり見てもとれる。『科学と方法』(1908)の啓蒙書でも知られたポアンカレは、ユークリッド幾何学は唯一の幾何学ではなく、複数の別の幾何学形式が同等の権利を持ってありえると数学を複数化、相対化した上で、無数の異なる現象の中から同一の形式をいかに引き出すか、は異なる現象をいかに相互に写像可能な変換群として直感=美的判断で捉え、その写像変換を実行するか、という問題と同等であり、ようするに数学的認識とは変換操作という能動的行為であるとも唱えてもいた。現実に存在するのはその変換された像の一つにすぎないが、一方でその変換行為を可能にする領域が、プランセなどが《4次元》などと仮に呼んでいた領域だった。

fig.72『キュビズムについて』グレーズとメッツァンジェ1912年

 《ピュトー・グループ》にフランシス・ピカビアfig.73やマルセル・デュシャンfig.74が属していたことは注目される。たとえばデュシャンの有名な《網膜的な絵画を否定する》テーゼも、デュシャンがポアンカレに倣って、一次情報としての事物の存在ではなく、その事物間が取り結ぶ写像関係(つまり函数的関係)あるいはその変換の延長(遅れ、あるいは距離)としてあらわす時空へ関心を寄せていたことを示している。ゾフィーたちダダイストと同じように現象を、偶然的=確率的な現れとして捉えるデュシャンの考えも《ピュトー・グループ》の議論から展開されたものと考えることはできよう。

fig.73Inside Danse de Saint–Guyフランシス・ピカビア1919年

fig.74デュシャンのアトリエ(マン・レイによる撮影)

7|ポアンカレと《不気味なもの》

日本でもアンリ・ポアンカレの著作はLa Science Et L'hypothese(『科学と仮説』1902)が1909年に翻訳(『科学と憶測』林鶴一訳)されて以来、多くの翻訳がなされ、よく知られるようになった。その一般向けの著作のシリーズはフランスと同じように小説家や芸術家に親しみやすく大きな影響を与えていた。たとえば夏目漱石の未完の遺作『明暗』(1916)には、主人公の津田由雄がポアンカレの《偶然》という概念について述べる場面がでてくる(一連の漱石の書籍同様、この書物の装幀も熊谷守一と同年生まれの津田青楓がしているから、主人公の津田という姓は津田青楓からとったのだろう)。主人公は痔瘻を患っているが、病院の帰りに自分の身体がいかに自分自身でも予測できない異なる別の存在であるかを考えはじめ、やがて、

彼は二三日前ある友達から聞いたポアンカレーの話を思い出した。彼のために「偶然」の意味を説明してくれたその友達は彼に向ってこう云った。
「だから君、普通世間で偶然だ偶然だという、いわゆる偶然の出来事というのは、ポアンカレーの説によると、原因があまりに複雑過ぎてちょっと見当がつかない時に云うのだね。ナポレオンが生れるためには或特別の卵と或特別の精虫の配合が必要で、その必要な配合が出来得るためには、またどんな条件が必要であったかと考えて見ると、ほとんど想像がつかないだろう」
(夏目漱石『明暗』)

この友人の言は漱石の門下の一人であり、そして津田青楓の親友でもあった物理学者の寺田寅彦(1878-1935)が漱石の『明暗』に先立ち同じ年に翻訳していたポアンカレの『科学と方法』の一節「事実と選択」に対応している。ゆえに、この友人とは寺田寅彦かも知れない。
彼は友達の言葉を、単に与えられた新らしい知識の断片として聞き流す訳に行かなかった。彼はそれをぴたりと自分の身の上に当て嵌めて考えた。すると暗い不可思議な力が右に行くべき彼を左に押しやったり、前に進むべき彼を後ろに引き戻したりするように思えた。
(夏目漱石『明暗』)

言わば漱石(の書いた津田)は、われわれの生自体が、自分自身でも確率的にしか捉えることのできない身体によって構成されている以上、われわれの思考も意志もその行動も所詮、偶然的なものに翻弄されているだけだというのだ。

 1916年12月9日、漱石はこの『明暗』未完のまま世を去った。その2年後、寺田寅彦は津田青楓についてのエッセイを書いている (「津田青楓君の画と南画の芸術的価値」『中央公論』1918)。その冒頭には寺田の訳したポアンカレの『偶然』そのままに「太陽が地球の周囲を動いているとすると外の遊星の運動を非常に複雑なものと考えなければならず、また重力の方則なども恐ろしく難儀なものになるに相違ない」と記し、現象を成立させる函数が複雑になりすぎると、そこからなんらかの予測のために取り出される法則は一つに確定できなくなる、ゆえにその選択自体が科学者の仮説をもとに世界を構成しようとする思想的表現とならざるをえない。津田の絵もこのように科学者が仮説をもとに実験を行って新しい原理を構成するのと同様の一種の《思考の実験:ゲダンケンエキスペリメント》であり、実験を行ってそこに一つの新しい芸術的世界を構成し現出しようとしているのだと書いている。

 すでに記したように津田や寺田と同世代で、同じく漱石の感化を受けていた熊谷守一はヘルムホルツの音響学、統計力学に影響をうけて、デッサンする代わりにノートにおびただしい計算式を残したりもしていたし0404|熊谷守一 『へたも絵のうち』fig.75fig.76fig.77、この世代の日本の若い芸術家たちにもすでに、自己を含めた世界の成り立ちを確率的、統計力学的に捉える思考は確実に浸透しはじめていたと言えるだろう。

fig.75,76,77熊谷守一の日記1902年–1922年

 だが、寺田寅彦が津田に期待したような思考が、作品に実際に明晰に顕れるのは次の世代を待たなければならなかった。坂田一男(1889-1956)fig.78はこの寺田、津田や熊谷の世代より十歳ほど年下、恩地孝四郎より二つ年長である。恩地孝四郎の同年にはすでにティーンエイジの終わりには頭角を現していた岸田劉生(1891-1929)がいて、恩地と岸田は同じく、この新しい文化を代表していた《白樺》の文化圏にいた。周知のように、そのなかでも岸田の影響力はずば抜けていた。

fig.78コンポジション坂田一男1949年横山學氏蔵

 この二人に比べれば彼らより2歳年上の坂田一男の活動は中心から離れてはじまり、その出発も遅かったと言えるかもしれない。祖父も父も共に医者の家庭に生まれた坂田は自身も医者をめざした極めて論理的な思考の持ち主だった。画家への進路の転向は学業に専念しすぎて陥ったという神経衰弱とプロテスタントへの回心とも平行していた。

 1921年に32歳で坂田一男は渡欧し、翌年にはフェルナン・レジェに師事をする。32歳での渡欧は当時としても遅いが、坂田にとってはプラスになったかもしれない。坂田はル・コルビュジエ(1887-1965)、クルト・シュヴィッタース(Kurt Schwitters, 1887-1948)より一年、マルセル・デュシャン,アメデエ・オザンファン(1886-1966)より二年下、ジャン・コクトー(1989-1963)、ゾフィー・トイベル゠アルプ(1889-1943)は同年、ジョルジョ・モランディ (1890-1964)、マックス・エルンスト(Max Ernst 1891-1976)は2歳下で岸田劉生、恩地孝四郎と同年だった。

 坂田はレジェを慕ってはいたが、同志としての結束を感じたのは上記の同世代の人物たちだった。坂田はメッツァンジェやグレーズの理論はもちろん、それが単なる視覚的追究ではない非ユークリッド的な数学的な論理に裏打ちされているのを見逃さなかった。すでに三十代になった坂田が日本で考えてきたことは、これらの運動の可能性がどこにあるかを冷静に見透す余裕を与えた。

 レジェに師事していたとしても坂田はむしろ坂田と同世代の《ピュリズム》のル・コルビュジエやアメデエ・オザンファンあるいは世代が少し上のピカビアの作品にこそ親近性を感じていたはずだ。

 渡仏後、《セクシオン・ドール》(《ピュトー・グループ》)と接して以来、後期にいたるまで坂田の作品は以下の一貫した特徴をもっていた。それは、

1—積極的に現された図(たとえば《a》とする)に対して、(図の周囲の)ネガティブな地としての領域(《非a》とする)こそを充実したものとして扱うこと。

2—この図《a》を描くと発生する地の領域《非a》、と図《b》を描くと発生する地の領域《非b》を同じ空間であるとは前提しない。

3—図ではなく地である《非a》《非b》《非c》という異なる領域自体を重ね合わせること。

という性格につきる。《非a》も《非b》も積極的に何かが描かれた領域ではないのだから、これは極めて抽象的な操作である。視覚的には対象化することができないにしろ、そこは図の周囲の余白ではなく、もっと積極的で充実した領域だということであるfig.79

fig.79コンポジション(メカニック・エレメント)坂田一男制作年不詳岡山県立美術館蔵

 今日にいたるまで、通俗的なモダニズム絵画のルーティンはニュートラルな空間(多くは白色の余白)の提示にあり、そのニュートラルな空間を基底にして、その上に複数の形態、異質なオブジェが、ときに整合的にときにランダムに浮遊するように配置される。あるいはそれぞれの形態が透明に重なりあっているかのように表されているというものだった。つまり、ここで図となる事物たちと、それが置かれるニュートラルな空間は階層が別であり、あくまでもニュートラルな空間が上位で、事物、形態はそこに配置される要素として下位レベルにある。すでに記したように坂田の絵画ははじめから、それとは異なる特性を示す。坂田の絵画で実験が繰り返されていたのは、ニュートラルだと見なされていた空間に特性を与え、それを単一なものとみなさず、複数化し同時に並存させることだったのである。図である異質な事物の遭遇、並存ではなく、地である領域(空間)それ自体の複数化であり遭遇、並存である。

二つまたはそれ以上の像が重なり合い、その各々が共通部分をゆずらないとする。そうすると見る人は空間の奥行の食違いに遭遇することになる。この矛盾を解消するために見る人はもう一つの視覚上の特性の存在を想定しなければならない。像には透明性が賦与されるのである、すなわち像は互いに視覚上の矛盾をきたすことなく相互に介入することができるのである。しかし、透明性は単なる視覚上の特性以上のもの、更に広範な空間秩序を意味しているのだ。透明性とは空間的に異次元に存在するものが同時に知覚できることをいうのである。  
(ジョージ・ケペッシュ『視覚言語』Geogy Kepes Language of Vision 1944 LINK、松永安光訳、『コーリン・ロウ建築論撰集マニエリスムと近代建築』所収「透明性、虚と実」より重引 1981)

 ハンガリーの美術理論家ジョージ・ケペッシュによる《透明性》に関するこの定義は、特にピュリスムのル・コルビュジエやアメデエ・オザンファンの作品fig.80fig.81LINKに対応している。すなわちケペッシュは同じ空間には本来同時には存在しえない複数の対象がなおかつ同時にそこに存在して認識されてしまうときに、それを見る者はその矛盾を止揚するために、領域《非a》でも《非b》でもなく、この二つの領域を相互に貫入している空間として《透明性》という特性を想像的に見出してしまうというのだ。

fig.80二人の女ル・コルビュジエ1938年ときの忘れもの蔵

fig.81Still Life with Grass of Red Wineアメデエ・オザンファン1921年

 坂田がやろうとしていたことはさらに込み入っている。本来積極的に対象、像として見ることのできない、つまりポジティブに描かれ提示されてもいない《非a》《非b》《非c》という領域がそこに同時に存在することを提示しようとしていたからである。否定的(ネガティブ)な空間を実体的、充実したものと捉える認識は、やはり坂田とほぼ同年だったイタリアの形而上絵画派のひとり、ジョルジョ・モランディ(1890-1964)にも存在していたfig.82

 坂田は渡欧しはじめて実際に見ることになった、ヨーロッパの最新表現をたやすく理解できたのは、日本で岸田劉生などの仕事を知っていたからだ、と述べているfig.83。坂田が日本にいたときに見ていた同時期の日本の前衛作家たちの作品で唯一、見るに足ると坂田が記していたのが岸田劉生の作品だったが、つまり坂田は日本で制作していた自分や岸田がすでに、同世代のヨーロッパの前衛作家たちと共通の問題意識を持ちえていたと確信したのだ。

fig.82Naturamortaジョルジョ・モランディ1959年

fig.83冬瓜茄子図岸田劉生1926年

 岸田劉生は、30年代に興隆するフォーヴィスムを日本化した洋画スタイルのプロトタイプを創出した画家として知られている。言いかえれば、岸田の影響は西洋モダニズム絵画を土着化するという保守的な志向と位置づけに回収されてしまっている。岸田がキュビスム以降のダダイズムや構成主義さらにはシュルレアリスムと同時代の作品だったことはあまり考慮をされていなかった。坂田の視点は岸田の仕事がモランディや《ピュリズム》、デュシャンとでさえ比較可能な同時代的な絵画であったことを再認識させる。

 岸田は、近代的ジャーナリストの嚆矢であり、英語辞書を編纂したことでも知られる岸田吟香(1833–1905)の四男として生まれる。吟香は日本における近代絵画の起源として知られる高橋由一fig.84fig.85や五姓田芳柳、下岡蓮杖fig.86など《横浜派》を支えた実質的なパトロンかつオーガナイザーだった。このグループの活動は、《ベアト&ワーグマン美術および写真家商会》という視覚ニュース・エージェンシー(通信社)との強い繋がりでもわかるように、ジャーナリズムを基盤とした新しい視覚情報の狩猟から、視覚世界を組織するメディア形式そのものの追究にまで到る、ボードレールが指摘していたとおりの現代絵画発生の条件を抑えていた。その意味で彼らの活動はフランスのギュスターヴ・クールベ(1819-1877)からエドゥアール・マネ(1832-1883)、ドイツのアドルフ・メンツェル(1815-1905)の仕事と対応していたともいえる。一言でいえば写真や版画、絵画そして言語記述など複数の表現形式がそれぞれ表出する事実の差異、矛盾、葛藤が生み出す問題群としてのリアリズムの追究である。たとえば高橋由一の『花魁』などは油彩表現の二大長所であり、かつ矛盾もする触覚的な質感表現力と透明な空間表現力、加えて浮世絵および当時の肖像写真撮影方法における平板な視覚的印象の強調という、複数の表現形式が作りだすズレをあえて強調するとき生まれるリアリティを追究することでクールベにも通じる表現を行っていた。

fig.86台湾戦争図下岡蓮杖1876年

fig.85花魁高橋由一1872年

fig.84高橋由一1877年頃

fig.86鯰坊主岸田劉生1922年豊田市美術館蔵

 岸田劉生はこうした先行する仕事の意義を、近代絵画を条件づける問題群として正確に理解していた。劉生自身の仕事の性格は彼自身の著述『写実論』(1920)から(彼の好んで使った用語を列挙しつつ)要約すれば明らかになろう。

 《写実》─劉生によれば彼の芸術の根本は写実の追究すなわちリアリズムである。《触感》─劉生はその写実の土台は触感=触覚性として現出される物質感にあるとし、《無形》─その触感とは「対象と人のいろいろの有形無形の交渉」に由来しているという。この物質感=触覚性として提示される交渉可能性にこそ「目に見えているようで目には見えない無形な感じ」すなわち肉眼で見える「形を超えていきなり人を打つ」永遠なる無形、写実対象の客体性を超えた無限感が存在している。それが対象と人の交渉に関わる以上、無限感、神秘感が生じる領域は「唯心的領域」にある。

 ここで無形性が示す唯心的領域と書いているものを数年後の『写実の欠除の考察』(1922)では、むしろ写実性の欠除として感じられる「超現実感」に関わると劉生は言い換えている。

すなわち写実を徹底的に追究すると、外観の印象は生々しく崩れだし異様にも感じられはじめる。ついには見かけの(見慣れた)姿かたちからはみ出す可塑的、無形の物質的真実が現れてくる。ところが、そこで直感的に把握された可塑的、物質的な実体は、われわれが対象に与えていた予測=見慣れた像を裏切ることによって得られた以上、われわれが事物に接していた無意識的領域そのものが現出としたと理解してもいい、ということになる。

  すなわち無形性とは「対象と人との交渉」の可塑性に由来する。見慣れた対象の姿が突然、異様にグロテスクに変形して現れるのは、この関係それ自体が不安定になる事に他ならない。それはむしろ物質的なものと直結していた無意識的領域=潜在性の噴出である。劉生の認識はフロイドが1919年に書いた「不気味なもの」0505|ジークムント・フロイト、『不気味なもの』(1919)1910年代からフロイトは分散的に翻訳紹介されていたが、1922年にフロイト理論を体系的に紹介した久保良英著「精神分析法」が出版され人気を博している。すでに「死の欲動」などのフロイトの最新理論も紹介されている。1930年代には春陽堂とアルス社からフロイト全集が出版され、おおよそのフロイトの著作は手に入るようになっていた。(Das Unheimliche)という感覚に正確に呼応していた。

  おそらく坂田一男がジョルジョ・モランディの形而上絵画に見出したものは、劉生が宋元の古典画に見出していた「形而以上の世界」(『東西の美術を論じて宋元の写生画に及ぶ』1924)と同等のものだったろう。すなわち「写実の妙諦は、外形即無形の美となる一境にある」(同前)。

  宋元の写生画について劉生が述べた以下の記述は、そのままジョルジョ・モランディの絵画、あるいはピュリズムのアメデエ・オザンファンなどの絵画にも置き換えることができるだろう。  

  輪郭線を生かして、その輪郭の中に彩色を平たく塗ると、その感じは変に強いやや厚い感じがでる。その感じは変にミスチックな感じを呼び興こし、その神秘感は、輪郭線の実物感によって、質の感じを聯感させる。即ち、質の美というものは、物質感の持つ神秘的美観であって…(中略)…ぺたりと平らにぬる時はその平らに塗った色彩の神秘性が、輪郭の実 物感によって質実の神秘感として生かされるのである。   (岸田劉生『東西の美術を論じて宋元の写生画に及ぶ』1924)

 

8|「写実の欠除」としての超現実

岸田劉生の絵画は「無形なもの」すなわち視覚対象として定位できないものの現出に向かっていたことにおいて、確実にキュビスム以降の問題群に沿っていた。

 劉生のいう「写実の欠除」とは、絵画表現が対象との結びつきを解かれることを意味する。いわば表現(シニフィアン)と表現されているもの(シニフィエ)の切断である。彼が書いたとおりにそれがグロテスク、同時に神秘的な感覚=超現実感を与えるのはそこに、その対象との日頃のルーティン化された交渉=関係をはるかに超える潜在的な可能性が露呈しているからに他ならない。グロテスク、不気味に感じるのは、見慣れたものの姿が偶然的な姿にすぎなかったこと、一瞬あとには崩壊してしまうだろう必然が現前するからだ。この決して固定した形に定着できない潜在性の現出を劉生は「写実の欠除」と呼んだ。その潜在性、確率的な偶然性、可塑性=変換可能性に対する注目はすでに述べたように《ピュトー・グループ》とも共通する。

 が、言うまでもなく(1924年のシュルレアリスム宣言に先立っていたが)超現実という語を実際に劉生が使っていたように、岸田劉生の仕事は、サルバドール・ダリの『パン籠』(1926)fig.87など超現実主義(シュルレアリスム)の出発点ともなる作品を先取りし、さらに劉生が使用した《無形》という語が文字通り示しているままに、視覚に晒された表面の偶有性を暴露しつつ背後あるいは周囲に隠された見えない領域こそを実体的なものとして提示しようとするアンフォルムの美学─モランディの仕事に先行して存在し、ジャン・フォートリエ(Jean Fautrier 1898-1964)fig.88、ルーチョ・フォンターナ(Lucio Fontana 1899-1968)fig.89によって展開される—に通じていた。

fig.87パン籠サルバドール・ダリ1926年

fig.88L'arbre vert(Elárbol verde)ジャン・フォートリエ1942年

fig.89空間概念ルーチョ・フォンターナ1962年豊田市美術館蔵

 劉生は『写実の欠除の考察』で、《写実の欠除》つまり《超現実感》─見える表現の偶有性の提示─の方法として二つの方法があると述べている。一つはあくまでも写実を徹底することで写実を破綻させる方法(これは高橋由一から岸田劉生が受け継いでいたものであり、すでに見たように宋元の古典画やヤン・ファン・アイクなどにもその効果は見てとれると『東西の美術を論じて宋元の写生画に及ぶ』で書いている)。もう一方で、幼児的あるいは野蛮なきまぐれ、偶然にまかせる方法がある。後者の方法はただ面白いだけであり、深い感情や認識に至らすことはない。が「その稚拙なる一種の大胆さと、荒唐無稽さと、強さによって味わわれる現実の擯斥」は、「進んだ作家にとってはひとつのヒントになりうる」と劉生は記す。そして物象の写実的要素が欠除してくると、どちらの方法にしても共に単純化、強調、反復などの装飾的形式、造形的な法則が全面的に現れてくるが、この無形の造形法則は素材や技術的制限など唯物的な条件=物質的束縛から導きだされる必然だという。後者には、超現実主義出現の予測だけでなく、すでに劉生も目撃しはじめていた(この文が書かれたのは1922年である)、構成主義やダダなど表現方法に対する批評も読み取れる。そして劉生はこう書く、「要するにこの世界は相対の世界、差別の世界、物質の束縛の世界であって美も、絶対も、涅槃もそれであるからこそのものである」。芸術が「物質的な意味の制限や束縛によって為されることを面白いことに思う」。

 1922年、ロシア革命から逃れた、マヤコフスキーと連名で《ロシア未来派宣言》を起草した、ダヴィド・ブルリューク(1882-1967)が家族たちとともに来日する。ブルリュークの目的はアメリカに移民するための資金を稼ぐことだった(ブルリュークは第一次世界大戦以降の日本が経済的活況で芸術書籍などが飛ぶように売れているという情報を得ていた)。《未来派の父》という呼び込みでブルリュークは新聞社主催の講演を頻繁に開き、たくさんの客を呼び寄せていた。同時にブルリュークは膨大な数の作品を描き、小説を書いた。劉生はブルリュークとそれを取り巻く日本のにわか未来派気取りの青年たちの熱狂を冷笑気味に書いているが、一方のブルリュークは若者向けに未来派パフォーマンスを演じていたが、実際はブルリュークの年齢に近い、岸田劉生から小出楢重に至る、当時頂点に達しつつあったいわゆる日本近代洋画の固有スタイルの流れに関心を抱き、それに準ずる作品を多く制作していたfig.90。ブルリュークは実際に彼らが属する二科展にも参加したのである。すでに40代に達していたブルリュークにとって未来派は大戦、ロシア革命以前の過ぎ去った熱狂であり、その限界も理解していた。その視点から、ブルリュークに年齢も近い、岸田劉生らの絵にブルリューク自身の考える大戦後の絵画が向かうべき方向と同質のものを見出したに違いない。ブルリュークが見出したのは、具象や構成といった表面的な様式の違いを超出する物質的な可塑性、無形性であり、一言でいえば触覚的な質、イタリアの美術史家ロベルト・ロンギのいった触知性である。ブルリュークはその後アメリカに渡り、同じくウクライナ出身で抽象表現主義以降の作家を指導したジョン・D・グラハム(1886–1961)fig.91LINKと同様に、前衛芸術家のサロンを作り、若い芸術家のみならず新しい芸術を扱おうとするコレクター、ギャラリストたちに大きな影響を与えた。ブルリュークを媒介におけば、1930年代にピークを迎える日本近代洋画とアメリカのリージョナリズムからポップアートに至る流れが通底していたことも明確にもなろう。1944年には、《ソシエテ・アノニム》を運営していたキャサリン・ドライヤーとマルセル・デュシャンがそれぞれ本文と装幀を受け持って『ブルリューク伝』を出版している。

fig.90家族の肖像ダヴィド・ブルリューク1921年兵庫県立美術館蔵

fig.91TwoSistersジョン・D・グラハム1944年36

9|《新感覚派》の変化物・奇形物・実用物・具象物

岸田劉生の『写実の欠除の考察』に登場する《差別の世界》《物質の束縛の世界》という語には、当時の日本文化を席巻していた唯物論の影響を劉生ですら受けていただろうことが読みとれる。しかし、劉生が事物と人の交渉の無形性、制限のなさを自覚していたにせよ、それは精神が物質と関わる可能性の無限を示すことはあっても精神の座を排除することにはならなかった。

 1923年9月1日に首都を襲った関東大震災は物質の支配を決定的にした。震災は日本の前衛文化を完全に転換してしまったのである。すでにマルクス主義もフロイトの精神分析理論も基本的な教養といえるほど、この時代には流布していた。そしてマルクスとフロイト双方を、物質こそが精神を決定するという一点の認識において連結し、物質が触発し考えさせるとまで要約し文学作品にしたのは《新感覚派》と呼ばれることになるグループであった。《新感覚派》の中心的メンバーである横光利一(1898-1947)は後にヨーロッパ文化に第一次世界大戦が与えた影響に匹敵する影響をこの震災は与えたと書いた。横光は後に《新感覚派》がいかに震災のショックから生まれた運動であったか、をこう回顧している。

自動車といふ速力の変化物が初めて世の中にうろうろとし始め、直ちにラヂオといふ声音の奇形物が顕れ、飛行機という鳥類の模型が実用物として空中を飛び始めた。これらは震災直後わが国に生じた近代科学の具象物である。焼野原にかかる近代科学の先端が陸続と形になって顕れた青年期の人間の感覚は、何らかの意味で変わらざるを得ない。
(横光利一「解説に代えて」『横光利一集』所収 河出書房 1941)

 《新感覚派》の文学の特徴は一言でいって、そこに主体的な統合がないことである。特権的な語り手はもはやいない。0606|川端康成(1899-1972)など。特に重要なのは稲垣足穂(1900-1977)と梶井基次郎(1901-1932)だろう。足穂は天体と日常の小さな事物の空間スケールを超えた交感に翻弄される私を書いた。梶井基次郎は都市の錯綜した路地のネットワーク構造がいかに精神の回路と直接連結し、思考を変える力があるかを書いた。世界を変革するには既存の回路=系列の分節を横断し、たとえば果物屋のレモンを洋書屋の本の上に置き去りにするだけで充分なのだ。

Fは口から血を吐いた。Mは盲腸炎で腹を切つた。Hは鼻毛を抜いた痕から丹毒に浸入された。此の三つの報告を、彼は同時に耳に入れると、痔が突発して血を流した。彼は三つの不幸の輪の中で血を流しながら頭を上げると、さてどつちへ行かうかとうろうろした。
「やられた。しかし、」とFから第二の報告が舞ひ込んだ。
「顔が二倍になつた。」とHから。
「もう駄目だ。」とMから来た。
 ─俺は下から─と彼は云つた。
(横光利一 『盲腸』 1927)

ここにすでにひとりの主体はいない。身体の各器官がそれぞれの問題を抱え、その問題が触発し、それぞれの主体F、M、H、という別の主体を生成させ、それぞれが自分勝手に自分の問題を報告しあっている。この混乱が起こっている場が私にすぎない。ここに提示された身体のアナーキーな様相はフロイトが第一次世界大戦後、理論的転回し提起した死の欲動理論、そのエスの様相そのものだったと言えるだろう(フロイトの『快感原則の彼岸』(1920)はすぐに日本でも紹介されていた)

 横光利一はマルクスの思想に影響を受けていたとしても左翼的な思考はなかった。が、横光にとって当時の左翼文学=プロレタリア文学はマルクスを理解した正当な唯物論とはいいがたかった。彼らは物質的な基盤=下部構造から上部構造を切断して、上部構造としての前衛による運動の主体的支配=指導を唱えていたからである。横光にとって、それはむしろ主体の優位(=物質からの主体の自律)を唱える唯心論にすぎなかった。0707|1928年に起こった「形式主義文学論争」として知られる、横光利一とプロレタリア文学理論を牽引していた蔵原惟人、平林初之輔らとの論争。

《新感覚派》と同世代で、同じく関東大震災期に活発な活動を開始する村山知義にも、主体=意識が、無数の物質的回路の干渉によって現れる現象にすぎないという思想は共有されていた。

 村山知義(1901-1977)は1922年にドイツに留学し、ベルリンで建築、舞台、美術、哲学と旺盛に最新芸術を吸収し、震災の年1923年6月に帰国し、早速、旺盛な発表活動をはじめる。

 そもそも村山の活動の拠点は、伴侶で協働者であった才気煥発、天才肌の詩人、児童文学者の村山籌子(1903-1946)の編集していた児童雑誌『子供之友』であり、それを出版していた自由学園(当初は女子学校)にあった。

村山知義自身も幼いころにフレーベル教育を日本に最初に導入した東京女子師範学校付属幼稚園に通っていた。いちばん気に入っていた演習は、切り紙(つまり恩物13)だったと『演劇的自叙伝1』(1970)に記している。

自由学園は明星学園などとともにフレーベル以来の児童教育の展開のみならず、フレーベルの方法の批判改良もした(1919年に来日もしていた)ジョン・デューイの方法を取り入れた最も先進的な大正自由教育を代表する学園だった。1923年に開校する自由学園の校舎は、その頃来日していたフランク・ロイド・ライトの設計による。ライトは創始者の羽仁もと子の理念に協賛しボランティアで設計を引き受けたとも言われる。裁縫や木工、菜園、料理と科学実験、そして物語と演劇、すべてに関わるものとしての芸術、こうした自由学園の実験的なカリキュラムは後のブラック・マウンテン・カレッジと多くの面で共通していた。

 村山は当時ドイツに留学した哲学者の三木清(1897-1945)や建築家の石本喜久治(1894-1963)など日本人留学生の多くと同様に、為替レートの落差がもたらした猛烈な円高(それこそがブルリュークが来日した理由だった)によって、あらゆる芸術公演を見て回り、また当時購入することのできるおおよその芸術書を蒐集するなど膨大な情報を獲得していた。村山の留学の目的は原始宗教哲学を修めることだったが、村山が第一次大戦後のドイツで発見したのは、物質条件が精神条件の基礎となり触発を与えるという唯物論的思想が具体的に前衛芸術の基底的思想となり機能していることだった。ダダや構成主義やザッハリ匕カイト建築などを通過して、新興芸術を牽引する力の中心になっているものとして彼が行き着くのは《ノイエ・タンツ》などの身体芸術であり、舞台芸術であった。彼にとって造形物は、もはや視覚的なものではなく(視覚的バランスやら調和などは考慮される必要がなく)、身体そして脳をより直接に触発する装置であるべきものだった。

 村山は帰国後、欧米の前衛芸術を紹介する多数の書物を著しているが、それは諸芸術運動の概説を超えた批判的総括でもあった。そこで村山はたとえばロシアの構成主義はもっとも生産的で、事物の構成の無限の組み合わせ可能性を示しているようにも見えるが、結局のところ、その可能性から実際の構成を選択する場面において主体の主観的選択(美意識)に頼るしかない、つまり主知主義を乗り越えることができない限界を抱えていると批判している(横光のプロレタリア文学への批判と同型である)。そして村山自身はその限界を乗り越えるために物質の構成によって意識そのもの、主体そのものを構成し直すという《意識的構成主義》を唱える。後に村山はその意図を「意識的に矛盾を掻き立ててその矛盾の相剋によって、更に高い統一を求めること。この苦しさを克服するために、自分の意思を努力によって構成する」ことだったと回想している(『演劇的自叙伝2 1921〜26』1974)

 村山知義の発表されはじめた作品にその特徴は明らかである。髪の毛や靴など雑多な物質を付着された触覚性が強調された作品は、モダニズムの原理に違反していると新聞に批判もされたが、そもそもそれは彼の意図したことだった。彼の意図は視覚的な配置ではなく、より直接的に身体そして精神に影響を与える触発性、物質的な接続だった。『無題(爆発/Fau)(1923) には彼が身体と精神を物質的な回路であると考えていたことが戯画的に示されている。

fig.92無題(爆発/Fau)

 『無題(人形4 小さな女の子)(1923頃) は服の型紙状のフォルムが配置されているが衣紋掛け(ハンガー)の針金が薄く描かれているように人体なき人物の肖像=人形の像である。人体を直接描かず、それを型取り、とりまく物質的断片で構成しなおそうという構造は『サディスティッシュな空間』(1922-23)fig.94や服の袖部分が直接付着されている『美しき少女等に捧ぐ』(1923)fig.95にも明らかである。人の姿は《サディスティック》に解体されることで、より機能的で直接的に《美しい》ものになる。いずれにしても村山にとって人間とは(その精神も含めて)物質的な構成物であった。それを感受するのは視覚ではなく、むしろ触覚的な接触であるべきだ。村山の作品は視覚的な造形であるよりも身体を触発し、具体的に作動させる装置であったともいえるかもしれない。

fig.93無題(人形4小さな女の子)

fig.94サディスティッシュな空間村山知義1922年–23年artmuseums.go.jp

fig.95美しき少女等に捧ぐ村山知義1923年cinra.net

fig.96ニッティー・インペコーフェン1928年

村山の作品に見られる、身体芸術とテキスタイル、裁縫技術の結合は当然のことながら、ゾフィ・トイベル゠アルプの仕事を思い起こさせる。すでに述べたように村山は実際にマリー・ヴィグマンのダンスなどを目撃したことから方法上の確信を得ていたのである(村山がもっとも熱中し、その公演を頻繁に追いかけていたのはニッティー・インペコーフェンのダンスだったfig.96。身体、物質を通した主体の再構築、こうした発想は村山を造形美術から遠ざけ、より直接的に人間の精神を触発し構成することのできる劇場に向かわせることになる。

『コンストルクチオン』(1925)fig.97LINKはすでに村山の主な活動が劇場(そして建築に)移行しはじめてから制作されている。数年前の『美しき少女に捧ぐ』、『サディスティッシュな空間』、よりも一見すると造形的には後退し、野暮ったい印象すら与えるかもしれない。しかし、この作品を詳細に観察すれば、村山がここで作ろうとしているものが視覚造形的な意図には還元しえないものであることがわかる。

fig.97コンストルクチオン村山知義1925年東京国立近代美術館蔵artmuseums.go.jp

 まず画面は複数のフレームによって分割されているfig.98。そのフレームの内側はそれぞれ固有の(正面性が強調された)平面的秩序に仕分けされている。左上と左下の枠内には背後に通じる実際の穴が開けられている。右下の格子内には何かの指示のように数字など記号が描かれているfig.99。右上の枠内には写真のコラージュが堆積し、下水の蓋や正面から撮影された自動車のランプの横には現実の釦が貼付けられ、画面の他の部分同様に正面性と背後に繋がる開口部であることが強調されているfig.100。要するに、この部分の写真構成自体が画面全体の構成に対応している。ちなみにここに貼られた写真の多くは村山知義が当時、購読していたと見られる『ナショナル・ジオグラフィック』誌からとられている。

fig.98

fig.99

fig.100

fig.101電話の交換台

 すなわち、この画面全体はどこか画面の背後に通じるさまざまな回路の端末=入り口が配置された操作盤に酷似している。ちょうど電話の交換台のように世界中のどこかに通じているインターフェースであるかのようだということだ。fig.101『コンストルクチオン』と同質な表現は、この時期、村山が制作した舞台装置にも見ることができる。たとえば写真の残されている『朝から夜中まで』の舞台装置も(舞台の上で起こるすべての事件、その時間をあらかじめ支配している)操作盤のように見えるfig.102。同じ表情は村山が設計した建築にも見てとれる。

fig.102カイザーの「朝から夜まで」の舞台装置村山知義1924

fig.103山の手美容院村山知義1929年

 『山の手美容院』を特徴づけている様々な窓は、さまざまな器官の詰まった身体の切断面のようであるfig.103。開口のそれぞれは異なる器官に繋がっている。こうした回路的な表現は、村山たちが結成した前衛芸術集団《MAVO(マヴォ)》の他のメンバーたちにも共有されていた。たとえば木下秀一郎(彼はブルリューク来日の際に同行し『未来派とは?答える』の共著者でもあった)『近代的都市組織の一部臓器施設』(1925)fig.104はそのタイトルだけみても同じコンセプトに基づいているのが明らかである。『MAVO』第三号の高見沢路直による表紙は村山の『無題(爆発/FAU)』との呼応が明らかである。毛髪とともに実際のカンシャク玉が貼付けられていたからである(この号はゆえに発禁処分になった)

fig.104近代的都市組織の一部臓器施設木下秀一郎1925年

 いずれにせよ、村山たちの制作するものはもはや視覚芸術ではなかった。それは何かを再現しているわけでも、視覚に楽しみを与えるものでもなかった。それは身体と世界を具体的に結びつける回路であることが目指され、さらにその関係を転覆し再編する装置であることこそが目指されていたのだ。

 1927年、数寄屋橋にこうした《MAVO》たちの思想を体現するような建築ができる。『朝日新聞社東京本社』であるfig.105。設計者の石本喜久治は村山知義と同船し渡欧した親友でもあり分離派建築家協会のメンバーでもあった。《分離派》は建築における《新感覚派》とも言え、日本において、ほぼ最初に結成されたともいえる欧米の新建築に呼応する前衛建築を志す若手建築家たちのグループだった。『朝日新聞社東京本社』は改築中の1923年に震災で壊滅し、改めて設計をやり直すことになり、建築会社内のコンペで帰国したばかりの若い石本がそれをとったのである。

fig.105朝日新聞社東京本社石本喜久治1927年

fig.106シカゴトリビューンの懸賞応募図案ヴァルター・グロピウス1922年

 欧米の建築見聞を重ねてきた石本の野心は大きかった。1922年に同じく新聞社ビルのコンペでヴァルター・グロピウス(1883-1969)やアドルフ・ロース(1870-1933)など欧州の前衛建築家たちが応募したことで知られるシカゴ・トリビューン社のコンペがあった。石本が朝日新聞社ビルでそれを意識したのは当然だった(石本が帰国してから出版した欧米の新建築をまとめた『建築譜』には落選したグロピウスのトリビューン・コンペ応募案も掲載されていたfig.106

 「大帝都に偉観を添へて 落成した我社新社屋 最新科学と芸術の粋を集めて」、竣工を伝える当日の朝日新聞の見出しが伝える通り、この建築は後のポンピドーセンターを思わせるような最新のテクノロジーを駆使したメディアセンターだった。劇場の内装などに《MAVO》のメンバーが参加し、瞬間的であれ日本に世界で最先端の建築が竣工したという気分を味あわせた。瞬間的だというのは、石本の建築の思想が村山の思想と共鳴し、建築を器官的な束として設計しようとする有機的なものだったからだ。0808|石本と働いた経験を持つ、山口文象、白井晟一、立原道造、は石本喜久治の流れをおおかれ、少なかれ共有していたと見てもいい。白井晟一、山口文象はドイツ留学時に村山知義の義弟、音楽家の岡内順三とも親交があった。

 様々な形態をした開口部はそのまま機能の異なる様々な内部器官の差異を表出していた。グロピウスではなく、むしろブルーノ・タウト(1860-1938)あるいはアドルフ・ロースの建築にこそ共通性をもっていた。つづく1928年に石本の設計で竣工した白木屋のファサードfig.107はどの面も、複数の建築の集合体のように異なる開口秩序が並列接合され、まったく異なる表情を見せている点でより村山知義の『コンストルクチオン』のコンセプトに近く、はるかにそれを洗練させたものだった。

fig.107白木屋(石本喜久治1928)北側立面、西側立面より作製したダイアグラム

 1936年、渡欧した横光利一はロースの設計したパリのトリスタン・ツァラ邸を訪ねた。横光がツァラに「日本にシュルレアリスムは必要なかった。なぜなら地震があるからだ」と話したという逸話は知られている(横光利一はこの経験から『厨房日記』、1936という小説を書いている)。しかし正確にいえば、横光が述べたのは、日本においては他者との葛藤よりも自然としての自己との戦いのほうが深刻だ、ということである。横光はその自己の内側にある自然=自己破壊的死の欲動の発現として地震を捉えていた。 

fig.108深海の情景古賀春江1933年

 死の欲動は、同じく《新感覚派》の作家で、後にノーベル賞を受賞した川端康成や友人の画家古賀春江にもとり憑いていた概念だった。古賀春江は横光がプロレタリアアートを主知主義と批判したように、シュルレアリスムを主知主義と批判していたfig.108。その根拠はフロイトに依拠しながら、シュルレアリストたちの活動が無意識領野を植民地のように支配しようとする、つまり結局のところ自意識の拡張にしか見えないからだ。古賀や川端に影響を与えていたのもフロイトの《死の欲動》理論でありエスという観念だった。古賀の死に際して川端は古賀が述べた「死ぬることは生きることだ」という言葉を引きながら、いわば死の欲動がシュルレアリスムに優勢することについて書いている(『末期の眼』1930、あるいはその40年後の『美しい日本の私』1968)。それはフロイト理論の取り込みによる日本文化論に他ならなかった。が、そこで死の欲動はもはやエスが支配する自然=動物性への傾斜、憧憬にまで変形されている。

 一方、村山知義はその後、二度の大きな方向転換をする。まず20年代中期のプロレタリア演劇への転回、美術表現においては社会主義リアリズム絵画への転回、つづいて数度の検挙拘留を経て1933年には共産主義活動の放棄の宣言=転向、重要なのはこうした転回をしつつも、村山が思想的核心において転向をした形跡がないことである。それは転向小説として知られる『白夜』(1935)に明瞭に示されている。村山知義本人と思われる主人公はその活動によって検挙され転向するが、まるで横光利一の書いた『機械』(1931)の主人公のように、自分が考えていることに確信が持てず、いや自分自身が何かを実際に考えているとさえ実感できない。不条理文学を先取りしたような記述である。つまり唯物論的に考えれば主体の一貫性など意味がない、そもそも考えるわたしなど存在しないのだから、とする《新感覚派》的思考はそのまま持続している。もはや芸術表現としてはアイロニーとそれは区別がつかないところにまで後退していたようにも見えるが、言いかえれば、村山はゆえに彼の活動力の源泉を温存し、実質的には旺盛な活動を持続しつづけもしたのである。

 事実、転向後も村山の活動は衰えなかった。34年には重なる権力の抑圧で分解、雲散しつつあった進歩的演劇人を結集し新協劇団を発足させる。村山自身はその後も検挙、釈放を繰り返すことになったが匿名であるいは遠隔的な指示によるものも含めて脚本執筆、演出は衰えなかった。むしろ注目されるのは村山の活動範囲はますます広くなり軌跡を追うことが困難になることだ。

 朝鮮の進歩的演劇人たちとの交流もその一つである。1938年に新協劇団は『春香伝』を築地小劇場で上演している。0909|喜多恵美子「転向美術家と『朝鮮』『満洲』─村山知義・寄本司麟を中心に」─『あいだ/生成=Between/becoming』2016年3月

 これは在日朝鮮人詩人の張赫宙が伝統芸能の唱劇=パンソリを脚色し、村山が演出・上演したもので、評判を呼び、日本と朝鮮の各地を巡回した。1940年に新協劇団は解散させられ、村山も再度、検挙されている。その検挙時に規制抑圧の危険の多い本土から逃れ、朝鮮半島での活動を判事に勧められていたことをきっかけに1945月3月には京城に渡る。同じく『春香伝』を今度は完全にすべて朝鮮語で、造形美術などを駆使した綜合的オペラに仕立てたパンソリ・オペラを制作する。村山はパンソリをオペラにすることは彼の一種の発明だったと自叙伝で誇っている(重要なのは、公演がすべて朝鮮語で行われ、作曲家も、もちろん俳優もすべて朝鮮人によるものだったということにある)

 それから60年後の2005年、ピナ・バウシュ率いるヴッパタール舞踊団はソウルで「Rough Cut」を制作発表する。ピナ・バウシュはパンソリ・オペラからかなりのインスピレーションを受けたと言われている。ピナが亡くなったあと、ヴッパタール舞踊団はアヒム・フライヤー演出によるパンソリ・オペラ『水宮歌』(“Mr.Rabbit and the Dragon King”)LINKを上演している。水宮で《ノイエ・タンツ》から展開した二つの流れ(村山とピナ)が出会ったかのようである。

10|《アール・コンクレ》、ダダをこねる

シュルレアリスムの主知主義あるいはロシア構成主義/ボルシェビキの主知主義に対して、ダダ─抽象芸術にあったのは、主体を捨て去り、事物に内在した知性そして倫理の具体性に賭ける、いわばアナーキズムだったともいえるだろう。その思想はダダと応用芸術の出会いからまっすぐ導きだされる。

 たとえば日常場面では、事物と身体との相互的な交渉=身体技術から当たり前のように感情や思考が生成する。事物はそれ自体の性質によって、外部から事物に関わろうとする力に抵抗するゆえに、物質との交流は身体を律し精神の偏向を修正する力ももつ。それは主体に基づかないゆえに持続的に再生可能でもある。つまり事物に関わり、何かを形づくることはむしろみずからを陶冶する=形成することに繋がるのだ。これは柳宗悦が見出した、手工芸制作過程に内在する倫理性とも通じるものだった(『民藝とは何か』1929)。事物との交流が教える知は、もちろんフレーベルからマリア・モンテッソーリあるいはシュタイナーの《教育遊具》へと受け継がれた中心軸にあった思考だった。

 しかし《フレーベルの教育遊具》は、その演習が、あまりに詳細な操作方法まで指定されていたことによって形式的すぎる、儀式的であるという批判もされていた。ここまで詳細に事物との関わりに指示を与えてしまうと、児童の自発性、自由はむしろ抑制されるのではないか。後続するモンテッソーリの《教育遊具》はそもそもマリア・モンテッソーリ(1870-1952)が知的障がい児の知能向上育成にあげた驚異的な成果をもとに発想されており、事細かな指示がいっさいなくても、ただ遊具と具体的に接していれば自動的に思考や感情が促されるように工夫されていたfig.109。まさにモンテッソーリの《教育遊具》は主知的な指導がなくても事物が身体を触発し、知性を生成させるという発想に基づいていたのである。

 《感覚教育》として知られる、そのメソッドは以下のようなものだった。身体的な運動およびその感覚から、抽象的な概念、法則性の理解を自動的に促すこと。そして身体的な交渉、試行錯誤を繰り返すことで、その過程で与えられる具体的な感覚、感性的感受から高度な抽象概念の習得へと導くこと。すなわち事物との関わりこそ知性を維持し育成するきっかけになる。むしろ知性を誘うのは事物である。人は事物に触発され考えさせられるのだ。触発すなわち事物が与える感覚が人間を育てる。

 モンテッソーリからは離れても見えるが、ルドルフ・シュタイナー(Rudolf Steiner 1861-1925)も、同じく事物との関わり、その相互性からもたらされる五感を超えた高次の感覚を重要視していた。それは事物と持続的に関わっていく行為を統べるバランス感覚=責任感覚だった。

fig.109モンテッソーリの《教育遊具》

fig.110シュタイナーの《教育遊具》

 シュタイナーの《教育遊具》の特徴は定まった輪郭=固いエッジを持たないことにあるfig.110。事物のかたち、輪郭は、それぞれのモノとモノそして手が触れあうこと、交渉しあう場所にだけ生じるのである。表面は柔軟に変化する厚みをもち、その厚みが、他のモノやヒトとの関わりによって伝達されるエネルギーを受けいれ、かたちを溶解させたり固めたりする。こどもたちは身体行為を通して、その変容過程に関わり、そのエネルギーを把握する。

fig.111パリースーダンF.T.マリネッティ1920年

 たとえば第一次世界大戦後、モンテッソーリの影響を受け劇的な変化を示したのは、未来派のマリネッティであるfig.111。大戦前に戦争をあれほど賛美していたマリネッティは大戦後、未来派に参加した数少ない女性作家ベネデッタ・カッパとの結婚fig.112を契機に大きく変貌し、愛と友愛をキーワードに、彼女と協働で1921年に《触覚主義(Tattilismo)》を唱えるようになる。ベネデッタはすでに大戦時、モンテッソーリの方法に基づいて貧困児童の教育活動を行っており、その《感覚教育》に覚醒して《触覚主義》を思いついていた。

fig.112男の心理学ベネデッタ・カッパ、マリネッティの共作1918年

 1919年にはドイツ・ヴァイマールにバウハウスが設立されていたが、よく知られるように初期バウハウスのプログラムを統合していた土台は、フレーベルそしてシュタイナーの理論を接続したようなものだった。ヨハネス・イッテン(1888-1967)の演習に明らかなように、諸芸術をつなぐ媒介は、個々の固有の身体行為が展開される空間と考えられたのであるfig.113

 しかしバウハウスは学校制度として、こうした試みを展開していくことはできなかった。身体からはじまり個別の空間が実現されていくのではなく、そのプログラムを制度に着地させるために、ロシア構成主義による造形学校ブフテマスがたどったように生産物、生産過程の標準化、規格化を確立することへ傾斜していくことになる。グロピウスから学長を次いだハンネス・マイヤー(1889-1954)は、事物の秩序に従って人間さえも標準化されうると考えたfig.114

fig.113学生たちと体操をするヨハネス・イッテン

fig.114ADGB連合学校校舎(ベルナウ、ドイツ)ハンネス・マイヤー1928–1930年

 ゾフィー・トイベル゠アルプは《触覚主義》のベネデッタ以上に方法論的であり、また実質的だった。政治的な関心が表に現れることはなかったが常に抽象芸術の可能性の中心で活動していた。

 《デ・ステイル》グループを設立した、テオ・ファン・ドゥースブルフが考えていたようには、オランダは必ずしも前衛運動の周辺にあったわけではない。ダダイズムの可能性が、抽象芸術を具体的な作用に結びつけることにこそあった、と明確に把握していたのはドゥースブルフたちだったからであるfig.115LINK

fig.115ダダ小夜会のポスタークルト・シュビタース、ドゥースブルフ1922年

 バウハウスは1933年にナチスによって閉鎖される。ファシズム、ナチスの台頭にともなう第二次世界大戦に向かう政治的緊張の中、ヴァルター・ベンヤミン(1892-1940)が弁別した通り、ファシズムの《政治の芸術主義》に対して、シュルレアリスムは《芸術の政治主義》にますます傾いていく。いずれにしても芸術も政治的全体主義、覇権主義に巻き込まれていったのである。

fig.116雑誌『アール・コンクレ』1930年

fig.117雑誌「アプストラクシオン・クレアシオン」1932–1936年

fig.121雑誌『ユニット・ワン』第1号表紙

 1929年、パリにこうした動きに対抗する抽象芸術の唯一の拠点がドゥースブルフによって結成される。《アール・コンクレ》(“Art Concret”具体芸術)であるfig.116LINKLINK。1930年に発表されたマニフェストは《具体》(Concret)というコンセプトを、現実にいっさい参照(模倣)する物をもたず、シンボルも詩情も物語性もいっさい媒介せず、直接精神に働きかけることであると定義している。芸術は精神に直接、フィジカルに作用する機械、道具だというわけである。

 《アール・コンクレ》は31年には《アプストラクシオン・クレアシオン》(Abstraction-Création)に展開するfig.117LINK。この運動の中心メンバーとしてドゥースブルフが働きかけていたのが、ゾフィー・トイベル゠アルプやウルグアイ出身でカタロニアを拠点に活躍していたホアキン・トーレス・ガルシア(1874-1934)だったことは注目に値するだろうfig.118

 ゾフィー・トイベル゠アルプはドゥースブルフを誘い、ストラスブールのダンス・ホール「Café de l'Aubette」設計をハンス・アルプとともに協働作業をしていた。一方、150冊以上の著作のあるガルシアは驚くべき多産的な理論家でもあった。ガウディと仕事をしたこともあるガルシアはバルセロナ、ニューヨーク、パリと活動の拠点を移動しつづけ、ニューヨークでは、デュシャンらの《ソシエテ・アノニム》LINKとも活動した。20年代中期に到達しつつあったガルシア固有のスタイルは世界を構成主義的、デジタルに構成しなおすようなスタイルであり、より直截にいえば、ホピ族のカティナの造形のような抽象的かつ触覚的な積み木のようだった。実際、ガルシアはそのころ玩具を制作し、大人気を博してもいた。ガルシアの玩具はゾフィー・トイベル゠アルプ、未来派のフォルトゥナート・デペーロ(1892-1960)fig.119、ロドチェンコやそしてクレー(が息子のフェリックスにつくった人形fig.120LINKとともに(それを凌いで)、前衛芸術の具体性が玩具といかに通底しているかを明確に示す事例だったといえるだろう。ドゥースブルフとガルシアは結局、見解を違え《アール・コンクレ》は分解、ガルシアは即座に《円と四角形》(“Cercle et Carré”)を結成し、遅れじとドゥースブルフが《アプストラクシオン・クレアシオン》を発足させる。トイベルとハンスのアルプ夫妻は双方に参加していた。

fig.118Pages from notebook Dibujo escritura(Drawingscripture)ホアキン・トーレス・ガルシア1933年

fig.119Balli plasticiフォルトゥナート・デペーロ1918年

fig.120クレーが息子のフェリックスにつくった人形

 《アプストラクシオン・クレアシオン》(Abstraction-Création)と平行して、同じ1931年にイギリスでも美術評論家、そしてアナーキストを自称してもいたハーバート・リード(1893-1968)によって《ユニット・ワン》 (“Unit One”)fig.121が結成されている。第二次世界大戦の直前、具体力を備えた(それはこどもにも働きかける力をもつ)抽象芸術はにわかに活発になってきていたのである。

 1933年の二科九室会、1937年の自由美術家協会の結成は、こうしたヨーロッパの新しい抽象芸術の動きに正確に応答していたといえるだろう。中心となったのは村山知義に続く世代、斎藤義重(1904-2001)、吉原治良(1905-1972)であり、長谷川三郎(1906-1957)、そして瑛九(1911-1960)であった。この世代に、すでに世界を変換群として捉える具体的かつ抽象思考はすっかり身についていた。

 戦後に具体美術協会を発足することになる、吉原治良は《ヴォーティシズム》以来のイギリスの前衛運動に大きな関心を抱きつづけた(《具体》という概念は、この時期に吉原が《アプストラクシオン・クレアシオン》などのコンセプトから牽かれたものである)。ハーバート・リードの主宰する『ユニット・ワン』 は吉原の愛読する雑誌だった。1930年代中期までの吉原の作品には、風景を実体と虚空間の反転可能な位相構造として捉えたベン・ニコルソン(1894-1982) fig.122LINKやバーバラ・ヘップワース(1903-1975)LINKfig.123への共鳴が見られる。fig.124fig.125また同時期、吉原はシュルレアリスム的とも称される潜水具や錨などのある海辺の風景や内臓のように衣服が絡む静物を描くfig.126LINK。それは港の風景を身体器官が散在する身体の内側のように描いた《ユニット・ワン》のメンバー、エドワード・ワズワース(1889-1949)の風景画と呼応していたfig.127LINK

fig.122Winter Landscape - Halsetownベン・ニコルソン1939–41年artuk.org

fig.124風景C吉原治良1933年頃

fig.123色をともなう彫刻(色をともなう形態)のためのドローイングバーバラ・ヘップワース1941年tate.org.uk

fig.125作品吉原治良1938-39年頃大阪新美術館建設準備室蔵

fig.127The Perspective of Id leness Iエドワード・ワズワース1936年graphicine.com

fig.126縄をまとう男吉原治良1931年–1933年頃大阪新美術館建設準備室蔵city.osaka.lg.jp

 長谷川三郎は極めて思弁的な作家であり、その理論は吉原以上に大きな影響力をもった。長谷川は1929年から31年に渡欧し、パリのモンドリアンのアトリエを訪ねているfig.128LINK。同じ頃、モンドリアンのアトリエを訪たアレクザンダー・カルダーがモンドリアンの作品に《モビール》fig.129LINKのコンセプトを見出したといわれるのと同じように、長谷川は大きな啓示をモンドリアンのアトリエから受け取った。

fig.128モンドリアンのアトリエ

fig.129Calder in his studio at 14 ruede la Colonie, Paris1931年

 長谷川の作品で注目すべきはその構造である。『蝶の軌跡』 (1937) fig.130、『都制』(1937) 口絵、『新物理学B』 (1937) fig.131、タイトルが示す通り、昆虫たちが活動する生態系あるいは交通網のようなネットワークの網目がある。長谷川の好んだ《あやとり》のように、生きた活動を司る位相構造の同一性さえ維持されれば空間は伸縮、折り畳み自在である。長谷川がここで把握しているのは確定した形態も大きさももたない位相空間=トポロジーである。かつてマルセル・デュシャンが『停止原器』 (1913-14) fig.132LINKで示した方法のはるかに柔軟な展開がここにある。

fig.130都制長谷川三郎1937年甲南学園長谷川三郎記念ギャラリー

fig.130蝶の軌跡長谷川三郎1937年

fig.131新物理学B長谷川三郎1937年甲南学園長谷川三郎記念ギャラリー

fig.132三つの停止原器マルセル・デュシャン1913–1914年(レプリカ1964年)tate.org.uk

 『朱』fig.133(1936)は斜めにずれて重なった2つの畳状の長方形の回りに輪ゴム状の不定形がばら蒔かれ、絵の具を塗った靴底によってつけられたと思われる足跡がランダムに画面上そこここに付着している。こうした相互に偶発的な要素の重ね合わせの構造は、1940年になる頃、名古屋の写真家坂田稔(1902-1974)と長谷川がはじめた興味深い写真シリーズ『室内』によってより明晰に示される。谷口英理1010|谷口英理『室内』シリーズ(1940)の「習作プリント」と長谷川の写真作品『国立新美術館研究紀要3』所収 2016年による詳細な研究によって、ようやく明らかにされた長谷川の組写真「室内」シリーズは、今後長谷川の作品を理解するもっとも重要な鍵になるだろうfig.133fig.134

fig.133「室内」習作プリント四つ切サイズ長谷川三郎

fig.134「室内」習作プリント手札サイズ長谷川三郎

 この写真作品はモンドリアン風の構成をも思わせる畳の上に長谷川が、新聞紙(当然、緊迫する時局の様相が歪曲されているにせよ掲載されている)1111|谷口英理は、この丸められた新聞が、『大阪毎日新聞』名古屋版であったと検証している。(同前)をまるめてランダムに投げて撮影したものだ。当時の世界を捉えるにこれほど適切な方法はあるまい。日常に投げ込まれた事変を示すことにおいて、いかなる写実絵画をも方法論的に凌いでいる。1212|藪前知子は「抽象絵画の沈黙―長谷川三郎における「古典」と「前衛」」(『クラシックモダン』所収 2004)で「長谷川にとって、写真を撮るということは、「現実の凝視」―「形式」からその奥にあるものを捉えるという、抽象絵画制作とのアナロジーをもつ」と書いている。

はるかに写真にまさる映画が益々その性能を発揮する時において、一枚の画面で凝集的に表現せねばならない写真においては、あくまで端的な集約的な表現が必要となり、そこに映画出現以前の写真よりも、もっと多くのいわば「抽象化」が写真に要求されてくるのである。
(長谷川三郎「新しい写真と絵画」)

 一般的に映画に表現できて写真に表現できないものは運動である(前述したマレーの試みを想起されたい)。映画と比較されることによって、長谷川が抽象という言葉に込めた意味は明確になろう。写真装置の弱点を突き詰めれば、写真は視点が固定された上で外界の視界、対象を写真画面に一元的に写像する(平面化する)ことにおいて、遠近法を用いた古典絵画と同じ欠点をもっている。この構造に準拠する限り、写真装置も伝統的な写実絵画と同じく、現代の知覚世界を表現するには有効ではない。長谷川の『室内』シリーズは、この固定した視点を世界とモノの可変的函数性へと開く。丸められ放りなげられた新聞は(デュシャンが「停止原器」で示したように)新聞に刻印された日日の出来事が偶然的なものでしかないことを告発してもいる。反対に、この組み写真制作方法が構造的に提示しているのは、可変性を含む不変の、(易経が示していたような)構造である。

モンドリアンの図柄の中に生きているということは、その中で動き廻ることを意味します。動き廻れば、われわれの透視画法が変わり、この極端に厳密な、直線的な構図の面白みが強調され、豊富化されます。こういう変化の計算は古代支那の易経(変化の書)に基づき、易経は物象の世界に対する数学的関係を取り扱っている書物です。標準寸法の規則は厳格であるが、真実の創造のあらゆる可能性を含んでいます。
(長谷川三郎「私の家」)

 1930年にモンドリアンのアトリエを訪ねた長谷川が獲得した、新しい構造が何であったのか、この一文が明らかにしている。1930年代において長谷川の方法論がもっとも近接していたと考えられるのはfig.133、ポーランドの《ウニスム》を主導したヴワディスワフ・ストゥシェミンスキ(1893-1952)fig.134LINKの作品群だろう。同じくポーランド出身だったマレーヴィッチ《シュプレマティズム》の影響から脱して、ストゥシェミンスキはそのパートナーであるカタジナ・コブロ(1898─1951)LINKたちとともに非ユークリッド的な空間を作品に実装しようとしていた。作品とともに、空間は可変的であり確定した大きさも限界も持たず、変容しつづける。作品はその変容を可能にする母型であるのだ。ストゥシェミンスキとコブロはトイベル=アルプと交流し、アプストラクシオン・クリアシオンにも参加していた。。

fig.133メトロポリス長谷川三郎1937年

fig.134Powidok światła. Pejzażヴワディスワフ・ストゥシェミンスキ1949年

 第二次世界大戦後、長谷川は、可変的なトポロジカルな構造を形成する方法として《マルチ・ブロック》という版画技法を開発するfig.135。蒲鉾板を使い彫ったブロック状の版木をランダムに画面にばらまき、そのつど異なる画面を構成する手法である。《環境》という用語を長谷川が用いていたように、これは環境デザインや音楽の作曲にも応用できる方法である。戦後、長谷川と交流をもった現代音楽家ジョン・ケージ(1912-1992)の図形楽譜はあきらかに長谷川の絵画の構造を踏襲してもいたfig.136LINK

fig.135交響詩霽日長谷川三郎1951

fig.136Fontana Mixジョン・ケージ1982年岡部版画出版所蔵tokinowasuremono.com

 ところで「新しい写真と絵画」という論考は実はそもそも、長谷川が瑛九の作品に見出した可能性を論じた文章だった。1930年代という重苦しい時代になされた、もっとも奇蹟的な達成は瑛九のフォトデッサンにあったといっていい。

 瑛九は1927年わずか16歳の時に美術批評を書きはじめ、1930年、19歳のときにマン・レイのレイヨグラフやモホリ・ナジのフォトグラムの影響からフォトデッサンをはじめていた。

fig.137眠りの理由(表紙)瑛九1936年松田光司氏蔵

 1936年1月、瑛九は長谷川三郎を訪ね、のちに『眠りの理由』(1936)fig.137としてまとめられることになる一連のフォトデッサンを見せる(そして、もちろん長谷川はその可能性を見逃さなかった)。その翌年、瑛九を加えて自由美術家協会が結成される。

 瑛九のフォトデッサンの上では、本来、異なる時間に属するモノ(当然、同じ空間尺度も持ちえない)たち、また、そのモノたちを照らした、同じく別の時に輝いたはずの光たちが、一つの画面を 充たし、ありえるはずがない一つの光として溶解し互いを反照しあっていた。いつ、どこにも定位できない時間と空間。にもかかわらず、これらの異なる次元にあるモノたちはありえるはずのない同じ《いま、ここ》で一緒に一つの光を呼吸しあっている。その確実性が驚くべき実在感をもって顕現している。 

fig.138『Dimensionist』(次元主義者)マニフェストチャールズ・シラト1936年

 瑛九はマン・レイのレイヨグラフと比較されるのを嫌った。エスペラント語の習得にも励んでいた瑛九の思考におそらくもっとも合致していたのは、モホリ・ナジの友人でもあった、ナジと同じくハンガリー出身の数学者、詩人、美術評論家チャールズ・シラト(Charles Sirato 1905-1980)LINKが1936年パリで出版した『Dimensionist』(次元主義者)マニフェストだったはずだfig.138

 そのマニフェストは以下のようなものだった。文学においては線的に展開する物語を否定し同時多発的に出来事が生起する面へと開放する、平面枠に限定された絵画を否定し空間に解放する、量塊に押し込められ固定された彫刻を否定し、気化された粒子的的分布=濃度の運動へと開放する。

 一言でいえばユークリッド的な空間および時間制度に位置づけられることから芸術作品を開放する。芸術は制度が確定的に測定することができる固定された輪郭、外形を失い、それ自体が外部世界を含み、生成させる宇宙になる。

 『Dimensionist』(次元主義者)マニフェストに署名を連ねた、知られたところのアーティストの名を列挙してみよう。ゾフィー・トイベル゠アルプ、ハンス・アルプ、ピカビア、カンディンスキー、ロベール・ドローネ、ソニア・ドローネ、マルセル・デュシャン、ベン・ニコルソン、アレクザンダー・カルダー、ジョアン・ミロ、モホリ・ナジ。瑛九の気持ちは彼らと共にあった。

11|第二次世界大戦の『視覚言語』

第二次世界大戦は芸術家たちに否応なしに生活の変更を迫る。

 1940年、パリへ侵攻したナチス・ドイツから逃れ、ゾフィー・トイベル゠アルプは南仏グラースで、ソニア・ドローネなどと新しい芸術共同体を構築しはじめる。しかし、42年にはそこも逃れ、スイスへ移動することになる。43年にひとり訪ねていたマックス・ビルの別荘で一酸化炭素中毒で亡くなるという不慮の事故まで、彼女の制作はとどまることはなかった。

 1941年に日本が真珠湾を攻撃し日米戦争=太平洋戦争がはじまる。国家の文化的統制は厳しさを増し、メディアもそれに追随したプロパガンダを繰り返すようになる。太平洋戦争に突入する10ヶ月前の1941年1月に美術雑誌『みづゑ』に掲載された「国防国家と美術(座談会)―画家は何をなすべきか」は、前衛芸術家たちの表現を事実上統制することを告知する座談会だったと知られている。情報局情報官、鈴木庫三は─国民の暮らしを顧みず、幾何形態などをひとりよがりで描いている画家など噴飯ものである、絵の具の配給を止めるべきだ─と脅迫もしていたからである。

 多くの画家たちはこの座談会に驚愕し不安を感じたという。吉原治良もそうだった。しかし、だからといって、それが時局に迎合した、いわゆる戦争画を描くことへ結びつくことは必ずしもなかったのである。長谷川三郎や瑛九、山口長男、堀口正和など、抽象画家のほとんどがいわゆる戦争画などを描かなかった。具象に転向することもなかった。もともと世間の圧力、不理解は折り込み済であった。良い意味でも悪い意味でも彼らはエリートであった。一般相手の表現をしているつもりはなかった。こうして戦争時、前衛芸術家たちはみずからの殻に閉じこもり、思索に耽ったのである。

 だがこうした消極的な抵抗ばかりではなかった。理論的な抽象画家たちは抽象表現こそが時局、もっと直接的に新しい戦場の複雑さを把握するに有効な技法であることを確信していたからである。たとえば、1939年に動乱の中国を訪ねた長谷川三郎はそこで、藪前知子1313|「抽象絵画の沈黙─長谷川三郎における「古典」と「前衛」(同前)が指摘しているように、1939年に動乱の中国を訪ねた長谷川三郎はそこでかえって抽象画家として確信を強めている。彼はこう書いた『大陸旅行は愈々僕を《抽象主義》者にした。今や僕は迷わない』1414|長谷川三郎「世界の古典(六)大同雲崗の石仏」

fig.139雑誌「NIPPON」18号(英独仏語)1939年

fig.140FRONT 7号(落下傘部隊号)1943年

 こうした認識は統制する権力の側も同じだった。情報局は大衆の熱狂を勝ちえるためにあえて公前では知識階級の罵倒、侮辱をしていたが、一方で実際の情報戦においては最新の表現技術を援用することにむしろ積極的だった。たとえば内閣情報部はすでに1934年に海外向けの日本文化広報プロパガンタ雑誌『NIPPON』fig.139LINKをドイツでバウハウス流の構成を学んできた、写真家名取洋之助(1910-1962)をトップに据えて発刊していたが、太平洋戦争がはじまった後の1942年にはさらに大胆な構成主義的手法でデザインされた海外向けプロパガンタ雑誌『FRONT』を刊行するfig.140。デザイン、制作を依頼された東方社には、ロシア語などに通じた、むしろ左翼系の編集者、クリエイターが集っていた。が、情報局はゆえに彼らに仕事を依頼したのである。情報局は当時、タトリンやリシツキー、ロドチェンコなど構成主義者をデザイナーにしてソ連で発刊されていた『CCCP НА СТРОЙКzЕ』(『ソ連邦建設』)fig.141の圧倒的なデザイン力に衝撃を受けており、これに負けないものを作ることを要請したのである。彼らがロシア語を読めること、ソビエトの最新文化を知っていることはかえって好都合だった。軍部は常に最新の文化情報を彼らに供給もしていたのだ。

fig.141CCCP НА СТРОЙКzЕ(海軍号)1937年

 構成主義的なデザインとは何だったのか。一言でいえば新しいテクノロジーの表現であり、そのテクノロジーが実現した、まったく新しい空間知覚を表現することである。恩地孝四郎は1935年に飛行機がもたらす新しい空間感覚を写真のコラージュに組み込んだ『飛行官能』を出版していたfig.142LINK。飛行が与える空間の新しさとは、そこに上下左右の方向感覚を確定している大地という基定面が存在しないことにある。飛行機は宙返りも急降下も反転もし、また相対する別の飛行機も同じく上下左右の空間軸を絶えず変化させる。ここに安定した知覚空間は存在しない。『FRONT』は、恩地の『飛行官能』の実験の遥かに先までの表現を実現していた。流動的な視点の変化を演出するためにページはときに2段に分割、切断され、1冊の雑誌が2つの別の雑誌になって異なるページ進行で展開した。

fig.142飛行官能恩地孝四郎編1934年

 言うまでもなく政府情報局がプロパガンダ、先ほどの座談会で鈴木庫三がはっきり述べていたように、情報戦で一番の有効性を認め期待が込められていたのは映画だった。軍部は予算の援助を惜しまなかった。

 特に注目されるのは山本嘉次郎監督による映画『ハワイ・マレー沖海戦』(1942)、『加藤隼戦闘隊』(1944)、『雷撃隊出勤』(1944)などの連作である。特撮監督は後にゴジラなどの怪獣映画を創出する円谷英二1515|また黒澤明は山本嘉次郎の助監督として戦前にデビューし、すでに『馬』などいくつかの戦策映画を作っていた。が担当していた。がもっとも驚くべき事は、これらの映画に含まれる空中戦の多くが実際の戦闘機を用いた実写によっていたことである(アメリカ側の戦闘機も戦闘で捕獲された実物が用いられた)。戦闘機機首に取り付けたカメラは驚くべき視覚を実現しているfig.143movie。空中戦描写にもまして、『加藤隼戦闘隊』があげた最も印象的な映像的な成果は、《落下傘部隊降下》の場面であろうfig.144movie。国際法は原則的には、落下傘兵が降下している空中にある間は無防備であるゆえに、攻撃を加えることを禁じている。落下傘兵がつぎつぎと降下し、宙をさまよう、この戦争の最中に瞬時、別の時間が流れているような空間の出現をこれほど見事に描いた映画はないだろう。(『FRONT』の落下傘号もかなりの伎倆をつくした表現を行っているが、この映画には及ばない)

fig.143加藤隼戦闘隊《空中戦》の場面山本嘉次郎1944年

fig.144加藤隼戦闘隊《落下傘部隊降下》の場面山本嘉次郎1944年

 これらの国策映画が絵画などに比べて、どれほど大きな大衆動員力をもっていたかは説明するまでもないだろう。19世紀以前の伝統的な具象絵画技術が新しい戦争の与えたこうした知覚を表現できるわけもなかった。その表現はいずれにせよ時代遅れのものだった。事実、多くの戦争画は(実際の資料を見ることも容易ではなかったから)、戦争グラフ雑誌の写真をただそのまま写すことだけで終わってもいた。繰り返せば、『FRONT』などのグラフ雑誌や映画『加藤隼戦闘隊』などの表現はむしろ広い意味での抽象芸術、構成主義の応用と展開によって成り立っていたのである。画家たちが抽象絵画から具象絵画に転向することは単なる後退を意味していた。

 チャールズ・シラトやモホリ・ナジ(1895-1946)LINKと同様に、ハンガリー出身のシカゴに亡命していたデザイナー、映像作家であり美術理論家でもあったジョージ・ケペッシュには、こうした第二次世界大戦で現実化された知覚構造の変革が、前衛美術が予告してきた新しい知覚の現実化であることは自明のことだった。ナジとともにデッサウ・バウハウスに関わり、亡命後は1937年にシカゴのニューバウハウスにも創設メンバーとして関わっていたケペッシュはシラトなどと比べて、技術者的な合理性を備えたはるかに現実主義者だった。

 すでに書いたように第一次世界大戦でも《ヴォーティシズム》などの画家たちは迷彩模様作製で軍に協力していた。1942年、ケペッシュそしてモホリ・ナジたちもアメリカ軍にアメリカの都市各々のカモフラージュ技術開発を依頼されている。第一次世界大戦で最も先端的だったのは海上における迷彩だったが、第二次世界大戦では空中からの視点をいかに防御、撹乱させるかに移行していた。ケペッシュは数多くの実験的な飛行の機会を得て、その経験を生かし、あの著名な著作『視覚言語』(Language of Vision)LINKを、まさに戦争中の1944年に出版している。

12|戦後美術のスペシフィック

建築やデザインや映画という実用性が認められた表現ジャンルにおいては、戦争は、近代的技法ときには前衛的な技法ですら有効な技術として動員し活用した。モダニスム建築家として知られる建築家の多くは戦争中にグライダーの開発に関わったり倉庫や兵舎ほか軍事用施設の設計建設に関わっていた。そのなかでも戦後現代建築を牽引することになる、若い丹下健三がいくつかの国威顕揚建設計画のコンペで優勝していた事実は際立っているfig.146LINK。ル・コルビュジエがヴィシー政権に積極的に歩み寄りプロジェクトのプロポーザルを行ったのも同様であるfig.147

fig.146大東亜建設記念営造計画案丹下健三1942年presidentsmedals.com

fig.147Urbanisme, projetsA, B, C, H, Alger, Algérieル・コルビュジェ1930年

 それらは戦争体制への実質的な協力であったが、戦後、戦争時の時局への順応、協力が批判された美術家や文学者に対して、戦争に技術的協力したデザイナーや映画監督、建築家たちが批判されることは少なかった。科学技術を非政治的で中立性をもったものとして免罪する曖昧な態度は宮崎駿が作った(零戦を開発した堀越二郎を主人公にした)『風立ちぬ』(2013)にも現れている。

 反対に技術への嫌悪は、たとえばハイデッガーの哲学に示されていたが、問うべきは技術の体制への組み込みよりも、むしろハイデッガーの思考までが援用されて、技術が常にロマン主義的に美化されてしまう様相だった。建築家、デザイナー、映画監督は例外なくみなロマン主義者であった。崇高美学に裏打ちされたアイロニーによって自らの主体的責任を解除し、その見返りに自らの政治的位置を文字通り《機会主義》的に彼らは保存したのである。

 その意味で戦争最中にあって、こうした技術的な回収へ抵抗できた最後の拠点は《アンフォルム》の美学だけだったともいえる。すでに語ってきたように、これは《具体》という概念に伴う一つの側面でもあったが、《アンフォルム》の美学は徹底して、その物質としての通約不可能性をこそ強調した。それは理解不能、接続不能すなわち通約不可能なまったく別の回路としてそこにある。それが思考し感じていたとしてもまったくそれは共感不可能である。

 にもかかわらず、それは充実した量塊としてそこに否定しがたく実在する。こうした共感できない領域の表現は、日本の新感覚派の作家たちとほぼ同じ世代であるジャン・フォートリエ(1898-1964)fig.88LINKやルーチョ・フォンターナ(1899-1968)fig.89の1940年代の表現にその嚆矢が見られた。フォートリエの表現には、〈視覚化された対象の周囲の非視覚的空間、影や空虚を充実した実体として捉え触覚性を与える〉という特徴があった。それは坂田一男やモランディにも先行して存在していた性格であった。

 またすでに述べたように《無形なもの》という概念は日本でも、すでに岸田劉生によっても発見されていた。岸田が発見した美学を戦争期に日本で展開していたのは靉光(1907-1946)だった。蜜蝋やクレヨンなどを使って描かれた画面には異様な実在感が漲っていたが、そこに明確に確認できる形態はなく、画肌は溶解し、深い闇と区別がつかなかったfig.148LINK

fig.148眼のある風景靉光1938年

 《アプストラクシオン・クレアシオン》にも参加していたルーチョ・フォンターナの1940年代からの仕事は、とらえどころのない流産したような形態から、やがて画布や量塊を実際に切り裂いて生まれる虚の空間が異様な充実感をもって現前するという表現に移行していく。空虚であるにもかかわらず充満しているのは、そこが決して到達できない別の世界、回路として自律しているからだろう。

 第二次世界大戦後こうしたアンフォルムの表現は形骸化し、いわゆるアンフォルメル・スタイルとして多くの作家がデビューし市場を賑わすことになる。それはアメリカにおける抽象表現主義の興隆と同時的であり、市場において共振していた。ヨーロッパを席巻したアンフォルメル・スタイルにおいて、かつての《アンフォルム》の思想は単純化され、あらゆる芸術形式を否定するという、演出(ショービズ)としての身振りに収斂してしまっていた。

 アメリカの抽象表現主義は(あくまでも一人の批評家クレメント・グリンバーグの理解に寄り添うならば)、抽象を再び、鑑賞に耐えうるべき芸術作品として回収することに成功した。抽象表現主義の達成は、1.それが視覚性に準拠していること。2.絵画というメディアを規定するところの画面という枠に忠実であること、にある。この二つの条件(両者は本質的には矛盾する)から外れることなく、つまりその限界内にとどまりながら、その限界をのり超える=忘れさせることがグリンバーグにとってのモダニズム絵画だった。しかしそれはあくまでも、それを把握することが可能な超越論的な理想的観客=目利きを前提にしていたのであり、その主体が批判される契機も、変容することも想定されていなかった。

 いずれにせよヨーロッパのアンフォルメル・スタイルにせよ、アメリカの抽象表現主義にせよ、芸術作品が安定して(それがかつての前衛を延長したスタイルであっても)交換されうる市場が成立したことこそを示していた。反芸術を騙ろうと崇高表現を唱おうと観客たちは安全な距離をもって楽しむことができるようになった。

 1960年代になると、こうした主知主義的思考はふたたび批判される。16 16|第二次世界大戦後、恩地孝四郎、瑛九、長谷川三郎などの表現の可能性を見出したのは、アメリカ軍占領下の日本を訪れたオリヴァー・スタットラーなどのアメリカ人のコレクターだった。その媒介となったのは当時日本にいたのちの抽象木版画家の内間安瑆(1921-2000)である。内間はカリフォルニア生まれの日系人で、太平洋戦争直前の1940年に日本に建築を学ぶため渡日する。高校はカリフォルニアのマニュアル・アート・ハイスクールで学んでいた。フィリップ・ガストンやジャクソン・ポロックが通ったこと知られる高校に学んだことで内間は、一回り上の世代に抽象表現主義が勃興する空気を間近で目撃していたことになる。内間は戦中もそのまま日本に留まり、画家としてスタートするが、建築を学んだこともある内間にとって抽象表現主義の、画家の主体性=即興的判断にのみ依存する個人主義は克服すべき対象だった。内間が通訳兼補佐として関わったスタットラーの「よみがえった芸術─日本の現代版画」 (1959)は大きな影響を与える書物になる。
 内間が恩地たちの創作版画に見出した可能性は抽象表現主義を乗り越える可能性だった。スタットラーの書物は恩地の言葉の引用からはじまる。「すなわち版画とは、異なる時間空間の現象の同時表現を可能にし、一方で、そこで起こる、すべての偶発的に見える事象を構造的に確定的に組織する(でないと版画はなりたたない)」。即興的偶発性を確定的な技法から必然的に産出するという言い方は矛盾に聞こえるが、恩地の言葉は異なる複数の木版=版木から、元の木版には存在しない画面を生成させるという木版の技術の特性そのものに基づいていた。同書は恩地の《マルチ・ブロック》手法による「ポエムNo.22 葉っぱと雲」(図)の制作過程の詳しい紹介もしている。
 1960年代にポップアートに関わったアーティストの多くは、版画制作を技法の中心にしていた。彼らは、第二次世界大戦後の日本で《創作版画》がブームになり、頻繁にアメリカ軍の施設でその展覧会が開催されていたころ、朝鮮や日本に進駐した経験をもつ世代という符号もあり、注目される。
 たとえば、ジャスパー・ジョーンズ(1931-)は当時日本に進駐する経験をもち、またロイ・リキテンシュタイン(1923-1997)は内間より三歳年少である。
fig.152|ポエム No.22 葉っぱと雲|恩地孝四郎|1953年|和歌山県立近代美術館蔵
ネオダダイズムといわれる運動が現れ、日常的、3次元的オブジェクトを使った作品が席巻する。《ミニマル・アート》の論客ドナルド・ジャッド(1928-1994)はアメリカの現代美術に当時現れた、こうした新しい作品群を《スペシフィック・オブジェクト》LINK(明確な物体あるいは特殊な物体)と形容した。しかしその定義は限りなく、かつて《アール・コンクレ》が主張した《具体》という概念に近かったfig.149fig.150LINK。ジャッドは新しい事物が与える明確さ、強さはいったい何からもたらされるのか、つっこんだ分析をしなかったが、それが事物と人との身体的かつ機能的な応答に結びついていることは明らかだった。(事実、ネオダダたとえばフルクサスグループの作品群は記号的=意味的な応答ではなく、直接、身体を触発する。身体動作に働きかけようとすることに特性があった)

fig.149Ensemble 1ゾフィー・トイベル゠アルプ1928年–1930年

 ジャッド自身が認めていたように《ミニマル・アート》の先駆をなす表現は50年代にはすでにあった。アグネス・マーティン(1912-2004)、それから100歳を超えた現在ようやく評価、再発見されたカルメン・ヘララ(1915-)LINK、だが正確にいえば彼女たちは《ミニマル・アート》の先駆者ではない。彼女たちの存在が示すのは、ヒルマ・アフ・クリントやゾフィー・トイベル゠アルプfig.152LINK1717|ゾフィー・トイベル=アルプからの、直接的間接的な影響関係を受けたと思われるアーティストは限りない。ルイズ・ネヴェルソン(1900-88)、バーバラ・ヘップワース(1903-75)、メレット・オッペンハイム(1913-85)、エヴァ・ヘス(1936-70)など。などの営為と思考がとぎれることなく継承されてきているという事実であり、もし彼女たちを先駆だというならば、《ミニマル・アート》は近代美 術の別の伝統、《美術》よりも広く、より基礎的な文脈にこそ、もとづいていたということがまさに《明確=スペシフィック》に認識されなおす必要があるだろう。

fig.151Ibericカルメン・ヘララ1949年whitney.org

fig.152Oval Composition with Abstract Motifsゾフィー・トイベル゠アルプ1922年